第六十一話 逸走 三
抜け穴を出たところから橋までに道らしい道はなく、ただひたすら膝丈まで伸びた草わらを掻き分けるように進む。
錫ノ国の兵士との交戦を避けるため、直線ではなくやや迂回するようにトウヤとハツメは橋を目指している。
トウヤは時々後ろの気配を察すると、とんと跳躍し身体を反転、宙にて矢を放つ。
矢が相手の急所を射抜けば、そのまま流れるように着地、再び前へと駆ける。
そこに追い付いてきたのは一人の男。
男は両手で柄を握ると、二人に向かって大きく得物を振り回す。
トウヤの反応が遅れた理由は、男が手練れであったことと、本来剣であれば届かない距離であったこと。
すんでのところでトウヤは振り返り、顔を顰める。
男が横一線に振ろうとしていたのは大身槍。
通常の槍に比べると非常に長い穂先をもつそれは、突きだけでなく薙ぎ払いも可能とする。しかし大身である分重量もあるために扱いが難しく、使い手を選ぶ珍しい武器であった。
男の振るう長大な穂先をトウヤは咄嗟に抜いた剣で受け止めるも、その勢いに押され横に吹っ飛ばされる。
受け身をとって衝撃を防ぐ。
しかしその少しの間に、一度は振り切った錫ノ国の兵士が追い付いていた。
ハツメとの間を遮るように、兵士たちはトウヤを囲む。
トウヤを襲ったのは、胸を焼くような焦燥感。
兵士の壁の向こう側では大身槍を持つリンドウが、トウヤには目もくれず、天剣を抜くハツメに対峙していた。
リンドウがトウヤを払い飛ばし、ハツメに視線を向けた瞬間。
ハツメは反射的に天剣を抜いた。
半分は本能。明らかに格上であろう眼前の男に対して。
残り半分は純粋な生きる意思だった。
「そんなに警戒してもらえるとそそるなー」
リンドウはにこやかにハツメに笑いかけた。
槍の柄を指先で撫でながら上機嫌な様子で彼女に近付く。
「一夜限りの関係でも濃厚な時間を過ごすのが俺の信条だからさ、よろしくなハツメちゃん」
これ以上眼前の男が歩み寄るのが耐え難く、ハツメは天剣を威嚇のつもりで振るう。振り下ろす瞬間、さっと漆黒の炎がちらついた。
「……それがイチル様の腕を駄目にしたっていう天剣だっけ? 確か振らせなきゃいいってエンジュ兄さんが言ってたな」
リンドウは少し目を細めるようにしてハツメの持つ漆黒の剣を見つめる。
それから彼が一歩踏み出せば、ハツメが体勢を崩すまではあっという間だった。
一番の要因は間合いの違い。ハツメの剣が届くよりもはるかに先に、リンドウの槍の柄が彼女の肩を突く。穂先の方であったなら腕が一本飛んでいるところだ。
ハツメはかろうじて天剣を手放さなかったものの、よろけたところをそのままリンドウに突き飛ばされる。
彼は地面に転がったハツメの横腹に槍の柄を突き立てると、天剣をもつ右手首をぐりぐりと踵で踏みにじる。
その痛みにハツメは思わず呻き声を上げた。
「あー、最っ高」
ハツメを見つめるリンドウの目は嗜虐の色に染まっていた。
「俺さ。女の子好きだから、すぐ死なれたりすると悲しいんだよね。だからちょっとずつ進めていこうな。……ああ、でも久し振りだから手加減できなかったらどうしよう」
自分を見下しながら悦に入る男にハツメはぞっとする。
生まれて初めて、彼女は人の言葉に吐き気を覚えた。
吐息を漏らしながら喜びに浸る男。
だが彼の感覚は研ぎ澄まされているようで、耳に届いた弦を弾く音に即座に反応してハツメから一歩下がる。
彼のすぐ目の前を疾風の矢が過ぎていった。
リンドウが気だるげに左方を見やれば、周囲にいた自国の兵士はみな倒されている。
視線の先には男が一人。
「下衆が」
冷たく怒るトウヤが次の矢を構えていた。
ハツメはトウヤが怒るところを見たことがなかった。
いつもへらりと笑う彼が、怒りに身を震わせることなどないのではとさえ思っていた。
だが今、怒りの沸点を超えたトウヤの目は軽蔑で冷々とし、全身からは殺気がたちのぼっている。
「そう怒るなよ、色男」
リンドウが茶化すように口の端を上げた。
リンドウの階位は中将である。
彼が軍に入ったのはカリンやエンジュと同時期。
優秀な二人に劣らないその力量から、一時は最年少で大将になるとさえ予想されていた。
にもかかわらず彼が中将止まりなのは、その素行の悪さが原因だと軍内では言われている。
場所を弁えぬ酒好きの女好き。訓練には参加しない上、イチルやカリン、エンジュ以外の命令は聞かない。
王都での問題が絶えないため四年前に辺境の地に左遷させられ、その間にカリンとエンジュは大将になった。イチルのお陰で中将の階位はもらえたものの、ついには年下のアザミにまで出世を越された彼。
ついたあだ名が、『大将になれない男』。
「来いよ二人とも。まとめて相手してやる」
現在の大将格と同等の力量を備えるリンドウが、挑発的に笑った。
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