第五十九話 逸走 一
――錫ノ国がそこまで来ている。
静寂の中、ハツメは心臓を掴まれたような苦しさを覚える。
奉納舞踊によって薄っすらとかいた汗は引き、体の芯まで冷えていく。
「匿うことは出来ないのじゃな、兄者」
「ああ。もうあちこちの警備兵と衝突が始まっている」
レイランとヒメユキは狼狽えることなく言葉を交わしている。
その毅然たる態度はまさに花ノ国を司る皇族のもの。
「正面切っての戦はないと思っていたが、夜襲とは大胆なことをする。格好も向こうの軍衣でないとくれば、こちらが後々訴えてもしらを切るつもりだろう。あの第一王子、いい性格をしている」
「ちょうど裏町のいざこざもあったからの。理由などなんとでもなるのう」
「しかし……錫ノ国はよほどお前たちにご執心らしいな」
ヒメユキがちらりとハツメたちを見やる。睨まれたわけではないのだが、その吊り目がちの目と視線が合いハツメはびくりと身体を震わせた。
「兄者! そういう意味ではないのじゃ。すまんのう」
「いえ。謝らなければいけないのはこっちよ、レイラン」
兄を窘め申し訳なさそうに謝るレイランに、ハツメの心がずきりと痛んだ。巻き込んでしまったのは結局自分たちではないかと、ハツメは自身を責める。
「しかし……いずれにしても、花ノ国を出なければなりませんね」
周りに気遣いつつ、シンはアサヒを窺い見た。
「御所は囲まれているのだろう。どうする」
眉を寄せ考える4人をただ見ていたヒメユキが、数秒の逡巡の後、静かに口を開く。
「……ここから抜け道がある。この地下洞窟のさらに奥を進めばアオイ草原に出るようになっている。昔から伝わる皇族のための避難道だ。レイラン、鍵を」
「うむ」
ヒメユキの言葉を受け、ちゃらりと音を鳴らしてレイランが取り出したのは小さな銀の鍵だった。
「出口の扉はこれで開くのじゃ。どうか無事に逃げておくれ、ハツメ。……あと、本当は後で渡そうと思っていたのじゃが」
ハツメが渡されたのは白と黒の書簡が1通ずつ。
「海ノ国に行くのじゃろう。都に着く前に白の書簡を読んでおくれ。そして中に書かれている相手に会う必要があれば、その者に黒の書簡を渡すのじゃ」
レイランの言葉にハツメはしっかりと頷く。
「わらわと兄者の師だった男じゃ。詳しく話そうと思っていたのじゃが、念のため白いほうも書いておいて良かったの」
「ありがとう、レイラン」
「こちらこそじゃ。さんざん世話になったのに、追い出すように送らねばならぬなんて」
目の前の可愛らしい女皇は悲しむように首を振る。
「もともとは私たちのせいだもの。こちらこそ、レイランには本当にお世話になったわ。……天比礼もありがとう」
「また会おうぞ、ハツメ」
それぞれが別れの一言を掛け合うと、ハツメたち4人は早足で出口へ向かう。
ハツメの衣裳は最低限を残して預けていった。今は薄水色の衣に深青色の袴。
天比礼を纏い、腰には天剣をさしている。
1本道の湿った地下洞窟をしばらく進めば、やがて人工的に削られた階段が見えた。
出口は閉じられているようだが、外の光が四角い輪をつくって漏れている。
鍵を受け取ったシンが重い扉を開けば、4人は月光に満ちたアオイ草原へと出た。
同刻、錫ノ国。
国王の執務室では、夜更けも近いというのにランプの明かりが煌々と燃えている。
その部屋の中央で、第一王子であるイチルは机に向かい執務をこなしていた。
その後ろに控えるのは、軍服姿の少年。三剣将のアザミである。
最初にアザミが執務室に赴いたときはその机に積まれた書類の量に思わず顔を顰めたものだが、その量を利き手と逆の左手のみであっさりと片づけていくイチルを見れば、もう何が普通かよく分からなくなった。涼しい表情のイチルだが、自分をここに付かせていることに何か意味があるのだろうか。そう思い少年は口を開く。
「イチル様、もしかして怒ってらっしゃいますか?」
「何が? 私が君たちに怒るわけないじゃない」
そう言いながらイチルはまた一つ文書を片付ける。
「いえ、ぼく花ノ国に行かせてもらえませんでしたし……お側に付けるのは嬉しいんですけど」
「ふふ、別に理由なんかないよ。カリンちゃんとエンジュくんがいないから寂しいだけ」
イチルは形良く口角を上げてくすりと笑う。
男女関係なく見惚れそうになるその笑顔だが、アザミは自分が監視されているのだと察した。
「お二人だけで大丈夫だったんですか?」
「二人だけじゃないよ。せっかく花ノ国に行くから、国境近くで一人拾ってもらったんだ」
話しながらも書類はイチルの手をするりと流れていく。
「あの人ですか。ぼくあの人苦手です」
「君たちの出会いはひどかったものねぇ」
あはは、と笑うイチルにアザミは苦々しい笑みで返す。
「まぁ別に誰が行っても良いんだよ、目的が果たせれば。……ああ、早く会いたいなぁ」
机に肘を付きぽつりと呟くイチル。相変わらず書類に視線を向ける彼だが、その瞳は熱を帯びていた。
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