第六話 別れ
谷ノ国が攻め込まれようとしている。
アサヒの素性を飲み込むだけでも精一杯なのに、この男はとんでもないことを言っている。
「本当はもう少し早くお伝えできる予定でした。しかしアサヒ様の名と十年前に来たというだけではなかなか辿り着かず……。偶然見ていた成人祭で、アサヒ様を発見したのです」
成人祭で呼ばれた名前から見付け出したようだ。アサヒと分かった後はすぐさま周囲の人々にアサヒの家を尋ね、ここに来たという。
「戦が起こるなら、すぐに他の人々に知らせなければ」
父が立ち上がる。
「ちょっと待って下さい。アサヒを救うというのは、ここで戦うということなのですか? それとも……」
ハツメが先を言うのを躊躇すると、シンは申し訳無さそうに答える。
「大変申し上げにくいのですが、私一人では錫ノ国の軍に太刀打ちできません。アサヒ様は私と一緒に逃げて頂きたいのです」
身体が震えてきた。歯がかちかちと鳴る。
「お願いいたします」
緊張した面持ちで答えたのは母だ。動揺は収まり、覚悟を決めた目をしている。
「母さん!」
驚いた様子で反応するアサヒ。
母は強く優しい顔で話す。
「アサヒは優しくてここを大事に思ってくれているから、いくら戦と言われても離れたくないのでしょう。でも、母の意思は違います。アサヒ、あなたにはどこであっても生きていて欲しい」
母は視線を移しハツメを見つめる。
「もちろんそれはあなたも同じです、ハツメ」
母は立ち上がると、シンに深々と頭を下げる。
「錫ノ国の戦士だった方、どうかアサヒだけでなく、ハツメも連れて行ってはくれないでしょうか。私たちにとってはどちらも同じ、大切な子なのです」
「私からも勝手は承知でお願い致します。うちの二人をお守り下さい」
母に続いて父も頭を下げる。
こんなの、悪い夢に決まっている。
ハツメの頭は全力で眼前の光景を拒否していた。
「お二人の願い、承りました。必ずや守ってみせます」
受け入れられるわけがない。
ハツメは力を振り絞って声を上げた。
「嫌だ! 離れたくない!」
「こればっかりは駄目だ。ハツメ、私たちはお前が可愛くてつい甘やかしてしまったが、これからはアサヒと助け合って生きていかなければならない」
父は真っ直ぐハツメを見て言った。
「そうと決まれば、すぐに行きましょう。本当に時間がない」
シンも親子の別れをせっつくのは辛いのだろう。苦渋の表情だ。
それからは本当に短い間で母は最低限の旅支度を整えた。父は居住区の長に戦の旨を伝えてきたようだ。ハツメとアサヒも半ば無理矢理準備をさせられ、五人で家を出る。
広場に出ると、宴は中断され混乱の最中だった。
広場の窓から外の景色がふと目に入る。対岸で火事が起こっている。窓や吊り橋の出入口からもくもくと煙が吹き出て、吊り橋に火が燃え移ろうとしていた。
吊り橋では谷ノ国の者ではない男達がこちらへ渡ってきている。初めて見る濃赤の服装に、剣を携えている。
「走りましょう!」
シンに促され走り出す。
螺旋階段を必死に上がり、廊下を駆ける。残るは最後の十二段。ハツメがいつももどかしく感じていたこの十二段の階段を、今日は呆気なく登り切ろうとしている。
ハツメが立ち止まった。
「地上へ出たくないわ」
「俺も同じだ、ハツメ」
アサヒはそう言うとハツメの手をぎゅっと握る。
「父さんと母さんの願いを叶えよう」
アサヒの声は震えている。
ハツメが見上げると、アサヒは涙を堪えていた。アサヒは出会った時からずっと、谷ノ国で生きたいと言っていた。
「うん」
ハツメの頬に熱い涙が伝う。
アサヒと同じように振り返り、一段下の両親を見る。二人とも涙と汗で顔がぐしゃぐしゃだ。
「大好きだよ。父さん、母さん」
ハツメは目一杯の愛情を込めて。
「俺も。この家の子になれて、本当に良かった」
アサヒは目一杯の感謝を込めて。
「2人とも、幸せに生きてね」
「ハツメ、アサヒ。成人おめでとう」
母と父はそれぞれそう言うと、二人の身体を地上へとそっと押しやった。




