第四十六話 裏町の妖
「想像以上に立派な家だな」
「レイラン、私たちに気を遣ったんじゃないかしら」
アサヒとハツメはそう言って目の前の建物を見上げる。花ノ国の一般的な一軒家である。青い瓦屋根も白い漆喰も透かし彫りのはまった窓も同じ。
3人は秋の儀式まで滞在することと、裏町への行き来に都合が良いことから家を借りた。人口増加が激しいアオイでは実は一軒家を持つこと自体大変なことなのだが、そこは女皇様の権力だろう。家賃を払う払わないの押し問答はあったが、これ以上貸しをつくるわけにはいかないというハツメの説得から何とか払う方向で契約を結ぶことが出来た。
天比礼を使う儀式までここで生活することになる。しっかりと腰を落ち着けるのは山ノ国の神官舎以来だろうか。あまり期間が空いたわけではないが、安定した居所を持つとほっとする。
北西区、大通りから少し離れたところに位置するこの家は2階建てで、1階は居間、階段を上がると2階は綺麗に3部屋に別れており、それぞれの個室として使えそうだった。内装を見ればますますレイランに頭が上がらなくなってくる。
宿から荷物を運び終えると、各自の予定をこなすため動き始める。
ハツメは表町での聞き取り調査、シンとアサヒは裏町の調査だ。ハツメも自衛の術は持っているが、治安の悪い裏町にハツメを行かせることをアサヒが嫌がったのと、効率の面を考えての別行動だ。主な理由は前者だろう。
とにかく裏町の支配者とやらを見つけなければ始まらない。
始まらないのだが、やはりレイランたちが頭を悩ませるだけはある。
梅雨が始まってから実に1か月もの間、ハツメたちは手がかりを掴むことが出来なかった。
「やはり難しいのじゃな。すまんのう、ハツメ」
「いいのよ、むしろこっちが申し訳ないわ」
今日ハツメは午後からレイランに会いに来ている。進捗報告と、ちょっとしたレイランの話相手として。
「ところで、ハツメは舞踊などできるかの?」
「舞踊?」
ハツメの頭に青蘭祭の催しの様子が浮かび上がる。ケイのやっていたあれだよね、そう思ったハツメは、
「無理だと思うわ」
きっぱりとそう言った。
「なんと。そうかそうか……実はハツメにお願いしたい儀式のことなのじゃが、わらわの代わりに奉納舞踊をして欲しいのじゃ」
「え……」
「天比礼を纏っての。今までは纏うどころか触ることもできなかったもので、天比礼は飾っておくだけだったのじゃ。でもわらわは何か違うような気がしての。試しじゃ試し」
レイランの目が好奇心で輝いている。そんな大事なことどうして最初に話してくれなかったんだとハツメは思ったが、よく考えたら自分も安請け合いだったと反省する。やるしかないのか。ハツメは目の前で楽し気に語る少女に気付かれないよう、こっそりと息を吐いた。
一方で、アサヒは裏町を探索していた。やはり裏町は治安が悪く、1人で歩いているとまあよくからまれる。からんでくる相手はただのならず者が多いためアサヒだけでも十分対処できるのだが、その数は今日だけでも数え切れない。
少しの噂でもあれば良いのだが、どうやら裏町を牛耳っているミヤという存在は裏町にかなりの恩恵を授けているらしい。誰も口を割らないためにどのような話もまったく耳に届かない。
今日は最近では珍しい、よく晴れた日だ。無意識のうちに長く歩いたのだろう、気が付けば日が落ちようとしていた。シンとの待ち合わせ場所に行かねば、そう思ったアサヒが路地の一角を曲がった瞬間、異様な気配とかち合った。
眼前を見れば、それは現の者かと疑う程の美しい女性。絹のように背中を流れる真っ直ぐな黒髪、文句のつけようがない均整の取れた顔立ちに加えて、成熟した女の体つき。着崩した派手な着物は女性の鎖骨をあらわにしている。
白い顔に映える真っ赤な紅が弧を描いた。
「あら、可愛い男の子。わたしのこと、知ってる?」
アサヒは瞬時に察した。これが噂の妖か。
「断る」
「まだ何も言ってないじゃない。……でも、私のこと知ってるのね。駄目よ、可愛い子がこんなところに1人で来たら」
「……な」
女を無視して歩を進めようとしたアサヒだが、自分の足が動かないことに気付く。
「食べられたって文句言えないのよ?」
女の濡れた瞳がアサヒを捉えて離さない。
花の甘ったるい香りに頭がくらくらした。
アサヒは腰が砕けたように壁に寄りかかると、そのままずるずる落ちていく。
呼吸が荒くなったアサヒの首筋を女の冷たい人差し指が艶かしく滑った。
「ねぇ。一夜だけでもわたしと遊びましょうよ」
艶然に笑う女が壁際のアサヒに迫る。ほどけるように、女の纏った衣がするりと下がり始めた。
アサヒの目に飛び込んだのは、胸元の刺青。薄く浮き出た胸骨から大きく両羽を広げる、青い蝶。
「――っ!」
アサヒは女から目が離せない状態のまま弛緩した手を必死に動かし、路傍から小石を探し当てる。
少し角張ったそれを思い切りよく握ると、自らの頭にがつりとぶつけた。
薄れかけていた意識が痛みではっきりする。
眼前の相手の突然の自傷行為に驚いた女が身を引いた隙に、アサヒは逃げ出した。
まだ女の残り香が鼻に付く。中毒性でもあるのだろうか、また嗅ぎたくなる気持ちがじわりと芽生える。
アサヒは片手で口を押さえた。そんなことを思う自身が気持ち悪い。吐き気がする。
やっとの思いで待ち合わせ場所に着いたアサヒの様子を見て、シンは目を見開いた。
「アサヒ様、一体何が……」
「妖に会った。詳しくは明日話す。……今日はもう休ませてくれ」
何か悪いものに酔ったような、尋常でないアサヒの様子にシンはそれ以上何も言わず、帰路を付き添った。
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