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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第二章 花ノ国編
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第四十四話 青蘭祭 アサヒ

 青蘭祭最終日。今日こそはハツメと回るのだと、アサヒは朝から意気込んでいた。


「では行ってくる、シン」


 出発前にアサヒが部屋を振り返ると、シンがアサヒの方を見てにこりと微笑んだ。


「行ってらっしゃいませ、アサヒ様。万が一のときは駆け付けますが、お邪魔など致しません故」


 シンは本当によくできた従者だ。必要なときには居てくれるが、過保護では決してない。場の雰囲気のわずかな変化を読み取って、合わせてくれる。アサヒはシンの存在を本当に有り難く思うと同時に、自分もああいった大人になりたいものだと1つの憧れの念を抱いていた。


 アサヒは一旦廊下に出ると、そのまま隣の部屋を訪ねる。ハツメも支度は終えていたようで、すぐに出てきた。


「おはようハツメ」


「おはよう、アサヒ」


 朝から楽し気に笑うハツメの頭には一輪の花。

 生花ではない。それはアサヒが谷ノ国でハツメに買った、組紐で編まれたかんざしであった。


「かんざし、付けてくれたんだ」


「うん。戦や旅の途中だと落としたら嫌だから、ずっと仕舞ってたんだけど。今日は久しぶりにどうかなって。人混みだから、気を付けるけどね」


「似合ってるよ」


「ありがとう、アサヒ」


 そんな話をしながら、2人は一面花で装飾された大通りを歩く。

 昨日と同じく凄い賑わい、いや、最終日だからもっと多いかもしれない。昨日のようにはぐれないよう、そんな理由を使ってごく自然にアサヒはハツメの手を握る。


「子ども扱いしないでよ」


 ハツメのその言葉にアサヒは答えなかった。子ども扱いではないのだが、心の中でだけそう言っておく。


「そういえばハツメ、青蘭は見た?」


 青蘭とはこの祭りの名前にもなっている花の名称である。花ノ国の象徴となっている花で、花ノ神がもっとも愛でる花ともいわれている。特別視される花だからこそ、あえてむやみには置かずに御苑の一角に丁重に飾られる。


「いいえ」


「じゃあ、青蘭を見に行こう」


 ハツメの言葉を受けてアサヒは、考えていた複数の行き先のうちの1つを選択した。


 着いた先は、先日ハツメが催しを見た広場とはまた別にある庭園だった。御苑には色々な植物が植えられているが、この辺りは種類が少ない。というより、青蘭を引き立てるために他の植物を植えたという印象を受ける。


 庭園に品良く飾られた青蘭は綺麗だった。暖かな春の日差しを受けて気品のある佇まいを見せている。柔らかい風が庭園を吹き抜け、緑の木々が気持ち良さそうに音を鳴らす。大通りの賑わいとは別の世界だ。


「そうだハツメ。レイランは何か言っていたか?」


 御苑に来て思い出したかのようにアサヒはハツメに問う。


「いいえ。一旦忘れてくれ、ですって。申し訳なさそうにしてて、良い子だったわよ」


「そうか。分かってると思うけど、俺は絶対婿になんかならないからな」


「うん」


 ハツメのもやもやした気持ちも既に消えている。2人は青蘭を観賞しながら穏やかに会話を続けた。




 日もすっかり落ち、街には煌々と明かりが灯される。2階に位置する露台から大通りを見下ろすと、まだまだ夜の祭りを楽しむ人々でいっぱいだった。アサヒとハツメは外で夕飯も終え、今は露台に腰を下ろし外の風を浴びている。


 2人は落ち着いた気分でぽつり、ぽつりと会話を交わす。

 アサヒはハツメには気付かれないように、少し考えながらその機会を窺っていた。


 ゆっくりと息を吐く。駆け足で拍動する心臓を落ち着かせると、アサヒは意を決したように口を開いた。


「ハツメ、ちょっと良い?」


 アサヒの方を見たハツメが何か答えるよりも先に、アサヒはハツメの腕を掴むと、そのまま自分の方に引き寄せた。アサヒの胸に収まったハツメは目を見開く。だが今のアサヒには、それを気にしてはいられない。


 ふわり、独特な花の香りがアサヒの嗅覚を刺激した。


「……ハツメ。良い香りがするけど、何か付けてる?」


 日中は周囲に花が多かったためかハツメからの香りには気付かなかった。山ノ国にいたときはしなかったそれを単純に不思議に思い、何気なく聞いたのだが。


「あ、もしかしてトウヤから貰った香り袋かも」


「……トウヤ?」


「うん」


 アサヒの身体がハツメを抱いたまま固まった。

 動けなくなったアサヒだがハツメを離す気もないらしい。しばらくの沈黙の後、溜息を吐いて項垂れる。さらりと流れたアサヒの黒髪がハツメの耳をくすぐった。


「トウヤの選んだ香り……ね。……それ、どこに入ってる?」


「左の(たもと)だけど……って、アサヒ」


「ごめんハツメ」


 アサヒは左腕でハツメの腕を掴むと、袖から右手を入れ着物の袂をまさぐる。


 アサヒが右腕を引き抜くとその手には薄い正方形の、品の良い香り袋があった。再び独特な香りが漂う。


「今だけ、これは無しで」


 アサヒはそう言って香り袋をわきに寄せると、仕切り直し、といわんばかりにハツメの肩を両腕で抱き締める。


 右手は白いうなじに、左手は薄い肩甲骨に。お互いの胸が密着しているため表情は分からない。アサヒが軽く吐息を漏らすと、ハツメは右耳からの刺激にびくりと身体を震わせた。


 低く、丁寧な声でアサヒが口を開いた。


「俺さ、好きなんだよ。ハツメのこと、ずっと前から」


「好きって……」


「家族とかの好きじゃなくて、恋人の方」


 アサヒは微かに笑いをこぼす。


「すぐ恋仲になりたいとか、そういうのじゃないんだ。いや、なれたら嬉しいけれど、まだハツメはそういうことを考えたことすらないだろう。だから、考えて欲しいんだ。俺とのこれからのこと。恋仲になる可能性を、俺に下さい」


 少しの間を空けて、アサヒがハツメから離れる。街の明かりに照らされたアサヒの表情にはわずかな悔いも見られない。真剣な表情だが、どこか晴れ晴れとしていた。


「悩んで欲しくて言ったんじゃないし、簡単に受け入れてくれるとも思ってない。ただ、俺の気持ちを知ってくれたら、今は良いんだ」


 アサヒはハツメの手を取ると、わきに寄せた香り袋を返す。


「聞いてくれてありがとう。おやすみ、ハツメ」


 そう言ってアサヒは露台を出て行った。


 ハツメの中に自分でも分からない感情がとめどなく湧き上がる。やがてそれは器を超えてしまい、全ての思考、行動を止める。


 ハツメはただぼんやりと、青蘭祭の残光を眺めていた。

お読み頂きましてありがとうございます。

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