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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第四章 錫ノ国編
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エピローグ 花ノ国

 花ノ国の都アオイ。水瓶の役目を果たしている御神水豊かな地下の上に広がるのは、春の恵みを受けた花木と、人々の穏やかな営み。


 御所の庭園では、設けられた椅子に腰を掛けて訪れた春を味わう、一人の少女の姿があった。


「わらわも行きたかったのじゃ……」


 降り注ぐ気持ちのいい陽気とは反対に、机に頬杖をつくレイランは残念そうに眉を下げる。


 昨年の夏、谷ノ国に帰る前にアサヒとハツメは花ノ国に寄っていた。天比礼(あまのひれ)を返すという目的とは関係なしに寄りたかったと言ってくれ、久しぶりの再会は実に楽しいものだったが、その後の秋に届いた誘いをレイランはやむを得ず断っていた。


「山ノ国はお前には遠すぎる。駕籠(かご)で運ぶにしても険しいのだ」


 ヒメユキが宥めるように言いながら、レイランの前に茶を注ぐ。

 湯呑みが満ちる音と共に、冬を越えていち早く摘み取られた茶葉が初々しい春を香らせた。そのたなびいた香りを静かに吸い込むと、少女はわずかに表情を和らげる。


「錫ノ国の王子はお忍びで行くと聞いておる。わらわはいつになったらここを出られるようになるのじゃ」


 いつかハツメと見た春山茶花を眺めながら、レイランがぽつりと呟いた。


 まだどこかしゅんとしぼんだ妹の様子を見て、ヒメユキは自身の猫目を何回か瞬かせる。


 昔はこういうことは言わなかった。先代の女皇だった母親に次いで父親が亡くなって以来、誰かに来させることはあっても、自分から外に出たいとはけして言い出さなかったのだ。

 初めてできた友人の影響なのだろう。未来を言い切ることはできなくとも、今はこのことを良い変化だと思い、優しく背を押してやりたいと、彼は思う。


「今年の夏。ミヅハ王子の戴冠式には」


 錫ノ国ならいくらかは行きやすいから、とヒメユキが言えば、レイランはぱっと顔を綻ばせた。桃色の可愛らしい花弁の横で、少女もまた頬を春色に染める。


「約束じゃぞ、兄者」






 その日の夕方、御所の回廊の一角にて。


「ミヤ」


「あら、皇子様」


 離れの稽古場から笛の音が聞こえる中、板敷きの回廊を歩くミヤの元へヒメユキが寄って来た。


「これを返す」


 無表情で差し出されたそれは、青銅でつくられた小さな鍵。裏町から御所に通っている、ミヤの部屋のものだった。


「もう黒猫は来て下さらないのね」


 ヒメユキの手からひょいと鍵を拾い上げて、ミヤは視線を下げた。身分が違いすぎるから当然だ。むしろ今まで逢瀬を重ねられたのが不思議なくらいなのだと、時折部屋にやってきては甘い鳴き声を聞かせてくれた、一匹の『猫』に想いを馳せる。


「あの部屋には。……ミヤ。御所に来てくれないだろうか。出仕という意味ではなく、妻として」


 周囲の小煩い役人共はなんとかするから、とヒメユキが言えば、ミヤははっと顔を上げる。

 回廊の白い漆喰に描かれているのは淡い水色の花模様。いつもはすました花を咲かせているそれは今だけ、夕日を浴び、薄っすらと赤く色付いていた。



 そこから少し離れた廊下の角で、二つの影がちらつく。


「あの兄者が……ついに言ったのう……!」


 ヒメユキとミヤのやり取りをこっそりと覗き見するレイランが、自分の下で同じようにやり取りを見ていた青年に声を掛ける。


「そうですね」


 齢十二の女皇にしがみ付かれているスイレンは、興奮した彼女の言葉に抑揚のない声で答えた。


「反応が薄いぞスイレン! あの色恋に(うと)い兄者が求婚したのじゃ! ちっとばかし風情がないとはいえ、もっと驚いたり、嬉しそうにしたり、何かないのか!」


「それより勤務に戻りたいのですが」


「堅いことを言うでない! わらわの側近になる以上これも仕事と心得るのじゃ」


 レイランがその小さな身体を揺らせば、抗う気力も起きないスイレンも一緒になってがたがたと揺れる。片目を隠す前髪の所為で視界が一層定まらない彼が、眉を寄せながら無愛想に呟く。


「しかしなぜ私に側近のお声が」


「キキョウがな。お主が適任じゃと」


「父が……?」


「将軍筆頭の座がまた近付いて、良かったの」


 考えるように俯いたスイレンの頭を見下ろして、レイランはにんまりと口の端を上げた。


 先日息子を推薦してきたキキョウの晴れやかな表情を思い出す。自身の代わりに息子を差し出しただけではないのだろうが、肩の荷を下ろした彼は今頃悠々自適な生活を送っているに違いない。まあ、息子本人も喜んでいるし良いことだ。


 日常に退屈することはない。当分はスイレンに構いながら兄の婚儀の手回しを楽しもうと、少女はころころと笑った。

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