第百八十四話 夜に咲く花
炎の先に視えた光景を目指して、アサヒは宮殿東の庭園を進む。
正玄関から地面に細く続いていた血痕は途中で消えていたが、それでもその先は分かっている。
炎に揺すられる合歓の中に、彼はいる。
どうして足がそこに向かうのか、はっきりと口では言えなかった。
悪意を、身の危険を視せるはずの異能の力。
だがアサヒはそのとき視た光景を、少なくとも悪意だとは感じなかった。
灰に覆われ月は出ていないが、煌々と燃える赤火が辺りを照らしている。
熱風に揺らぐ小川を見下ろしながら木橋を越え、アサヒは森へと歩みを進める。
合歓の木の根を踏みしめると、そこには散らしたように木の花が落ちていた。
日没前に咲く合歓の花。その化粧用の刷毛にも似た艶めかしい紅の花弁を辿るように行けば、それほど大きくない土蔵の前に出た。
おぼろげに浮き上がる白い漆喰の向こうから、甘く柔らかい歌声が響く。
土蔵の鉄柵の隙間から香り立つ童謡はアサヒもいつか聴いたもの。
姿は見えないが、この壁の向こうにイチルがいる。
自分の足音に気付いていないのか。アサヒは壁に一旦手を付くと、それに沿って再び歩き出した。
分厚い漆喰の戸は開け放たれていたが、二枚目の頑丈な木戸は閉まっていた。
緊張もなく、アサヒはそれにゆっくりと手を掛ける。
現実と内を隔てているようなその引き戸を開けば、ほの暗い中に一つ、儚い金色の輝きが目に入った。
鉄柵の下、先程沿って歩いてきた壁に背を預け、もたれかかるように。イチルは一人、腰を下ろしていた。
流れていた童謡が止まり、焦げ茶色の瞳がアサヒを映す。
「どうしたの? まさか一緒に死のうって言葉、本気にしちゃった?」
「……無視できなかった」
自分の気持ちを考えても正しい答えは分からず、返す言葉を選ぶとするならそれくらいしか浮かばなかった。
土蔵に足を踏み入れたアサヒを見つめながら、イチルはくすりと笑う。
「やっぱりヒダカは優しい子に育ったんだね」
「そんなんじゃない」
アサヒがイチルの方に近付くと、彼もまた左手を床に着きこちらへ身体を寄せようとする。だが力は入らず、しなやかな肢体は音を立てないまま床に崩れた。
仰向けになったイチルの横に、アサヒはそっと膝を付く。
煙を吸ったのか、それとも他に何か理由があるのか。
『第一王子は身体が弱い』とは、誰から聞いたことだったか。
――ああそうだ、とアサヒは思い出す。
イチル本人が、そう言われていたと話していたのだ。
白雪積もる山ノ国の、雪崩に巻きこまれた向こう側で。
会話の内容から昔の話だと思っていたが違うのか。
アサヒは口を開こうとしたが、すぐにつぐんだ。
こちらの考えを見透かしたような、イチルの視線の所為だった。
アサヒを見上げ、小さい呼吸の中で彼は微笑む。
「ねえ。少し頭下げてくれない?」
「どうして」
「最後のお願い」
どこか甘えるような表情と口調に、アサヒは少しだけ頭を下げる。その動きに合わせて流れるのは、深い黒の髪。
昔と変わらない弟の髪へと左手を伸ばすと、イチルは彼の頭をさら、と撫でた。優しく、温かく、赤ん坊を愛でるように。
幸せそうな彼を見て、複雑そうにアサヒは眉を寄せた。
「ようやく、こうすることができた」
アサヒの髪に指を絡めたまま、吐息混じりにイチルは唇を開く。
「私の駄目だったところはね。こうなるまで、ヒダカ以外の全てを捨てられなかったことだと思うんだ。この国も、母様も、あの三人も。最初から全て捨てていたら、きっと今頃二人だけだった」
「でも。それを望まなかったんだろう」
「できなかっただけだよ。私は小さい人間だから」
アサヒの膝の前で横になるイチルは眉をほんの少し下げると、自嘲気味に口の端を上げた。
「……イチル」
「ヒダカ。兄さんって呼んでよ」
「最後の願いじゃなかったのか」
「じゃあこっちが最後のお願い」
そう言うと、彼は悪戯っぽく笑った。
「兄さん。……イチル兄さん」
とても笑顔など作れない。戸惑った表情で呼んだ名だったが、それでもイチルは嬉しそうに双眸を細めた。
「なんだろう……幸せだな。……そうだ、私の亡骸は残していってね。いくらヒダカに背負われても、晒し者は嫌だよ。あと、もし見つかっても王族の廟には入りたくないな。あの三人のために、どこでもいいから小さな塚を作ってよ」
最後はどこにいった、とアサヒは思わず苦笑する。
「我が儘だな」
「ふふっ。駄目かな」
「いや。思えば俺も我が儘な人間だった」
谷ノ国を出てからここまで、いつも自分のやりたいことをさせてもらっていたな、とアサヒはこれまでに想いを馳せる。
「……じゃあ、兄弟で似ているのかな」
「そうかもな」
兄の呟きにアサヒがそう返すと、イチルのまなじりに滴が浮かんだ。
鉄柵の向こうには陽炎が揺らめき、その中を合歓の花が落ちていく。
はらはらと散る紅の一つが鉄柵の隙間から入り込み、イチルにそっと触れれば、彼は次第に目を閉じる。
零れた滴は熱い炎を映しながら頬を伝うと、金色の髪に優しく溶けていった。
アサヒに触れていた左手が力なく落ちる。
アサヒはその手を優しく握ると、ゆっくりとイチルの胸の上へ運ぶ。
彼の胸に収めても、手は離さなかった。
ただ兄の温もりが消えていくのを自身に沁み込ませるように、アサヒはじっと彼のかたわらに寄り添っていた。
燃え上がる炎は勢いを増し、土蔵を包み込む。
紅い合歓が見せる夢は彼らと共に。夜の日に霞み、消えていった。
お読み頂きましてありがとうございます。
明日の更新で完結となります。
最終話とエピローグ四つを朝の六時台に投稿したいと思いますので、あともう少し、お付き合い頂ければ幸いです。




