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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第四章 錫ノ国編
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第百八十三話 合歓の記憶 二

 暗い土蔵の中、少年は一人童謡を歌う。

 声変わりを前にした甘い歌声は鉄柵の隙間を香るように抜け、夜の空気に溶けていく。


 いつからか、アカネたちは土蔵に来なくなった。

 それを心ないとは思わない。ヒダカの夜泣きが落ち着いたのならそれはそれで良かったし、父親のアカネへの執着が以前にも増して狂気じみているのは母親の荒れ方からも明らかだった。


 それに、イチルだってここに来る日は減っている。

 八歳を過ぎてから軍政の仕事を覚え始めているのだ。自立を急かされ忙しいため、その間は自然に母親と距離ができる。

 疲れないわけではなかったが、ヒダカと共に生きるためと思えばどんなことも頑張れる。

 それでも心が擦り切れそうなときは、ここに来ればいい。


 彼にとってこの頃の土蔵は現実からの逃避先であり、良い夢を見るための心の拠り所だった。

 変わらず一人の夜は時の流れが遅かったが、大丈夫だ。

 大切なものは、確かにこの手の中に残っているから。




 *****



 そうしてヒダカに会えないまま四年の時が過ぎ、十二歳になったイチルに言い渡されたのがシャラの平定だった。初陣ながら当然のように結果を残し、将来自分とヒダカを支えてくれるだろう、身内と呼べる子らを拾い上げた。


 上手くいっていると思っていた。

 自分たちの世代に待つのは、明るい未来だと。




 シャラから戻りしばらくして、イチルと成長したヒダカが顔を合わせられる機会が訪れた。王族と中枢の面々が集う定例的な会合に、六歳を迎えたばかりのヒダカも出席することになったのだ。


 軍閥の名家も集まる華やかな会の中、イチルは周囲に気付かれないように何度も異母弟(おとうと)の方を見る。

 成長したヒダカは凛々しく、綺麗な顔立ちをしていた。それでも初めてのお披露目に緊張を隠せないようで、表情は少し固い。その汚れを知らない初々しさに、イチルは思わず顔を綻ばせる。


 そうする間もイチルの元には代わる代わる臣下が訪れた。軍政に関わり始めて以来、母親だけでなく彼自身もよく声を掛けられるようになったのだ。後継ぎとされる自分に媚びへつらう彼らの相手もそこそこに、何とかヒダカに話し掛けたいと彼は思案する。


 それにはまず母親の目を盗まなければ。


 適当に理由を付けてその場を離れ、人酔いするような大衆の中クロユリの姿を探し出す。華美な格好の母親は見つけやすかったが――すぐに彼は焦燥を抱いた。周囲からはあまり目立たない場所で、彼女の方が先にアカネたちへと接触していたのだ。


 アカネに対するいつもの嫌がらせだろうか。もし彼女の矛先がヒダカを向いたら――。

 立ち止まったイチルの顔から血の気が引いていく。


 母親は怖い。自分に跡継ぎとしての関心しか持たない父親以上に、イチルにとって彼女は逆らえない存在だった。

 だがそれでも、後でどんな折檻を受けようとも、ヒダカが傷付けられるくらいなら。

 ありったけの勇気を振り絞り、彼が三人の元へ一歩踏み出そうとしたときだった。


 アカネを庇うようにしてクロユリの前に立ちはだかった、幼い子。

 六歳のヒダカが物怖じしない様子で王妃二人の間に割って入ったのだ。

 クロユリが驚いたように彼を見下ろすと、ヒダカは幼子ながらに強い目で彼女を見上げる。


 反抗的というには言葉が悪い。ヒダカのその真っ直ぐで純真な眼は、戸惑うクロユリ以上にイチルにとっては衝撃的で、残酷なものだった。



 だが晴れての再会の形は、それだけでは終わらない。


 アカネとヒダカの前に立つクロユリにも、離れた場所で立ち尽くすイチルにも、ともすればアカネにとっても。予期しなかった出来事が起きた。


 情を排した顔で三人の元を訪れたのはコウエン。

 この会での義務をこなし、もう下がりたいのだろう。横から歩み寄ったコウエンは無言のままアカネの腕を掴むと、ふと視界に入ったヒダカを見下ろす。


 このときの彼が何を思ったのかは分からない。アカネの髪質と同じだとでも思ったのかもしれないし、些細な気まぐれだったのかもしれない。


 コウエンはヒダカにも手を伸ばすと、さらりと息子の黒髪を撫でた。


 この辺りから、イチルの記憶はおぼろげなものになる。

 ただ、絶望的な顔でこちらを見るクロユリに小さく首を振って――彼はその場から逃げ出した。




 先程見た光景を振り払うように、イチルはひたすらに走る。

 だがすぐに忘れようと思っても、一度気付いてしまった事実はくっきりと痕を残し、容赦なく彼の心を蝕んでいく。




 ヒダカは心が強い。彼を守りたいと思っていた自分が滑稽に思えるほど、真っ直ぐな強さを持っている。

 それにヒダカにとっての宮殿は、自分が思っていたより悪い所ではないのかもしれない。自分とは違い、本当の意味での両親がいるのだから。


 自分が生きるためにかけがえのない存在だったヒダカにとって、自分は一切必要なかった。



 ――そんなこと。認めてしまったら生きていけない。


 どうすれば、あの完璧なヒダカが欠陥品の自分を求めてくれるだろう。考えなければ。

 ヒダカが自分だけを見て、自分に守られたいと望む方法を。


 そうだ、それが実現できれば。ヒダカは兄である自分を頼って生きてくれる――。




 吐き気を堪えながらイチルは回廊を走る。

 なんとか王族の居住区に戻ったが、目眩は酷くなるばかり。

 自分の部屋に辿り着く前に彼は近くの小部屋へ駆け込んだ。




 どのくらい時間が経ったか。会合もとっくに終わり、いつの間にか夜になっていた。あれからずっと小さくうずくまり、顔を濡らしていた少年の背に、影が落ちる。


「……イチル」


「母様」


 振り向けば、自分を冷たく見下ろしていたのはクロユリ。

 受けるのが悪意だろうと愛だろうと。

 異母弟(おとうと)のように立ち向かうことなど、やはり彼には出来なかった。



 *****




 ヒダカが死んだと聞かされたのは、それからまもなくしてだった。


 「アカネちゃん! ヒダカは……!」


 父親たちが北方の視察から戻ってすぐ。数少ない世話係と回廊を歩いていたアカネにイチルは詰め寄った。母親に咎められようが父親に見つかろうが、このときは構わなかった。


「イチル様――。ごめんなさい、ごめんなさい」


 乱れた金色の髪をそのままにしたイチルと目が合うと、アカネは悲痛そうに顔を歪ませた。揃った睫毛を哀しげに伏せると、彼女はそれ以上何も言わなかった。ただひたすら謝りながら、自室へと下がっていった。




 それ以来、アカネと会話は交わしていない。日々執着が激しくなる父親を見ていれば男の自分がアカネに会うことは許されないだろうと思ったし、周囲の者も実際そのように言われているようだった。


 自分からヒダカを取り上げた母親にも、みすみす息子を手放したアカネにも何か言ってやりたかった。

 結局、大事なものは、自分の手の中に入れておくしかないのだと思った。






 自分の弱さに生きているのが辛くなる。 

 ヒダカを奪ったこんな理不尽な世界からはいなくなってしまいたいのに、その頃には自分が抱えたものを捨てることすらできなくなっていた。


 今度やり直せるならば、絶対に離さないというのに。

 何にも触れさせないようにヒダカを守り、ヒダカにも自分を頼りたいと思わせるのに。

 どうして死んでしまったのだろう。

 どうして自分は死ぬことができないのだろう――。






 ヒダカがいなくなって以来、何をしても満たされることのない日々だったが、十年後。


 彼の諦めていた人生に再び光が差した。

 その光は鮮烈で、美しく、不純なものが一切ない、あの頃と同じもの。


 それが山ノ国の戦での、『朝日』と呼ばれる少年――ヒダカとの再会。

 イチルの心が、再び日の光に照らされた瞬間だった。

お読み頂きありがとうございます。

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