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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第四章 錫ノ国編
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第百八十一話 落日

 柔らかな白光から醒めていく。

 アサヒとハツメが火ノ神のいた空間から戻れば、そこは夏の木花が彩られた庭園だった。


 ハツメたちが感じていたよりも四神の下で過ごした時間は現実では長かったらしい。空に満ちた灰に隠れて、日が落ちかけている。辺りが夜へと移り変わる中、鮮やかな色彩の庭を熱い風が吹く。


「これがミヅハの言っていた東の祠だ。火ノ神の場所に通じて良かった」


 そう話したアサヒの視線の先をハツメも見やれば、草木に隠れるようにして小さな石の祠が建っていた。ミヅハの言う通り惰性で残されていたのだろう。周辺はともかく祠自体は少なくとも数年は手入れされていないようだった。

 存在が薄れてしまったこの場所をよく見つけられたな、とハツメはアサヒを見上げる。


「来てくれてありがとう、アサヒ」


「いや。……離れないと約束したのに、少し破ってしまった」


「私だってそうよ。……第一王子はどうしたの?」


「ああ。実は――」


 アサヒが続きを言いかけたときだった。


 崩落音と共に、赤橙色の明かりが二人を大きく煽る。

 その元を見れば、木造の宮殿に火の手が上がっていた。


「まずは帰ろう」


 ハツメの手を引きながら、アサヒは宮殿の来た道を駆ける。建物の崩壊がきっかけでどこかに火が付いたのかもしれない。

 火事に気付けば、徐々に流れてくる白煙や熱風、材木を焦がす匂いがひしひしと身に伝わってくる。


 彼方の大山を見れば、噴火は収まっているようだった。続いていた大きな大地の揺れもこちら側に戻ってきてからはなくなっている。

 間欠的な活動の合間かもしれないが、そうではなく、火ノ神は先程のことで荒ぶることをやめたのだろうな、とアサヒは思った。




 走り始めてほどなくして、最初の正玄関の場所に着いた。

 イチルと一戦交えている最中に崩れた場所だが、まだここまで火は燃え広がっていない。

 丈夫な正門が崩れていないことにもほっとしつつ、宮殿の外へと足を進めていく。

 ハツメの手を引きながら、アサヒは崩落した正玄関の跡に視線を移した。



 アサヒとイチルが倒れ込んだ場所にイチルはいなかった。


 ――誰かに助けられたのだろうか。


 だが細く掠れた血の跡は、今しがた来た宮殿の東へと続いていた。

 火の手から逃れることに頭が一杯で気付かなかった。帰り道、この跡はいつからあったのだろうか。


 宮殿のどこまで続いている? イチルはどこに消えた?



 もう気にしなくてもいいはずだ。

 対峙した彼の様子を見れば、向こうはこの戦自体勝利する気はない。まだこの戦に意味があるのなら、こちら側の勝利として収束するだろう。

 とにかく、正階段前まで攻め込んだ反乱軍に合流しよう。そうすれば、事態は明らかになるはずだ。


 胸に滴り落ちる感情には気付かない振りをして、アサヒはハツメと共に正門を潜った。





 正階段前の広場に下りれば、シンやカナトをはじめとする反乱軍の面々が戦の収束に向けて慌ただしく動いていた。トウヤたち山ノ国の部隊も合流したようで、何やら話し合いをしている。


「アサヒ様!」


「シン。無事でよかった」


 誰よりも早く二人の帰還に気付いたシンが駆け寄ってくる。


「それはアサヒ様が。第一王子は――」


「……やっぱり、来てないよな」


「はい。他は捕らえてはおりますが」


 どこか晴れやかでないアサヒの様子にシンも物憂げな顔になる。


「アサヒ」


 続けざまに声を掛けられたアサヒが近付く影を見やると、こちらへ歩んできたのはトウヤだった。


「何やら大変だったらしいな」


「ハツメが火ノ神に連れて行かれてな」


 アサヒがそう言って隣のハツメを見下ろせば、彼女は少しだけ眉を下げつつも朗らかに笑った。


「もう大丈夫」


 ハツメがアサヒとトウヤに微笑めば、空気がいくらか柔らかくなる。

 とにかく彼女は無事だ。もう戦は終焉なのだ。そう、アサヒの胸に安堵の色が差したときだった。




 突如、アサヒの視界にちかりちかりと光が灯される。

 光は徐々に集まり、揺らめき、視界を覆っていく。

 彼を囲んでいた音が離れ、双眸が熱く燃える。




 ――異能の力はすぐに収まった。


 だが目にちらつく炎が消えても、アサヒはぼんやりと一点を見つめていた。

 気付かない振りをした感情が静かに(かさ)を増し、心の器から零れていく。

 名前は付けられない。だがその溢れた感情は確かに、「無視してはいけない」と彼に訴えかけていた。



「アサヒ?」


「ハツメ……ごめん。もう一回、約束破る」


 どこかも知らない前を見たまま、アサヒは言った。


「え――?」


「シン。俺は再び上に行く。……不甲斐ない主で悪いな」


 「一人で行かせてくれ」とアサヒが続ければ、その胸中をシンは正しく理解したようだった。

 彼は一度目を伏せると、主を見つめ、柔らかく目を細める。


「不甲斐ないなど。お帰りを待たせて下さいませ」


 シンへの感謝の想いをまだ返し切れてはいない。

 このような自分でもまだ待ってくれようとする彼に言えることは何もなく、アサヒはただ、強く頷いた。


 アサヒは身体の向きを変え、トウヤと目を合わせる。

 彼の中で一番付き合いの長い友人は複雑そうに、それでもアサヒの言葉を受け止めようとぐっと口を結んで彼を見る。アサヒが何を言おうとしているのか分かっているのだ。


 ありがたい、と一言では言い表せない。トウヤがいなければ今の自分はいなかった。

 それなのに伝えることがこれとは、何を言われても、何発殴られても足りないな、とアサヒは彼を見据えた。


「トウヤ。――ハツメを頼む」


「……分かった」


「アサヒ――?」


 珠のような瞳をぐらつかせ、ハツメはアサヒを見た。

 アサヒはいつも変わらない柔らかい光を帯びた目で、愛おしい彼女に告げる。


「行ってくるよ、ハツメ」


「……嫌。私も行く。アサヒに付いて行くって、言わせてくれたじゃない!」


「ごめん」


 それ以上は語らず、目も合わさず。アサヒは振り返る。彼が向かうのは、炎が包む台地の上。


「嫌だ! ――トウヤ! お願い、離して!」


 アサヒを追い掛けようとするハツメがトウヤへ振り向く。トウヤはハツメの腕をしっかりと掴み、彼女を強く引き留めていた。


「ハツメ嬢……すまぬ」


 友人の決意を受け取ったトウヤの口から出たのもまた、揺るぎない言葉。

 何を言っても付いて行かせてくれないのだと察したハツメがくしゃりと顔を歪めれば、彼は苦しそうに視線を逸らした。




「アサヒ! アサヒ……!」


 背後で何度名を呼ばれても、アサヒは足を止めなかった。

 涙の混じる叫び声が日没に小さく掠れていく中。

 彼は猛火の立ち上る宮殿への階段を登り、黒煙の中へと入っていった。

お読み頂きありがとうございます。

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