第百八十話 四神の息吹 二
天剣から盛る漆黒の炎。その中から一人が現れると、炎は次第に収まっていった。
一人と一柱の前に現れたのは、黒一色に身を包んだ男。一見すると簡素な黒の衣だが、使われた布の上質さからはその男のこだわりを感じさせる。歳は三十手前か。もう少し若いかもしれないが、火ノ神に比べると随分と落ち着いた印象を受けた。
気位の高そうな男の眉目が、火ノ神に向く。
「人間の娘相手にむきになりおって。相変わらず恥ずかしい奴だ」
「山ノ神……!」
声を掛けられて確信したのだろう。火ノ神は一歩後ずさり、目を見開く。
ハツメと同様驚いた様子の彼だったが、すぐに目を尖らせると現れた男に罵声を浴びせた。
「勝手に入って来るなよ! 今まで放置してたくせに! 今さら何の用だ!」
今にも噛み付きそうな形相で怒る火ノ神に、山ノ神は薄く笑いかける。
「迎えに来た――というのは嘘だ。そうだな、いつかの仕返しに来たと言ったらどうする」
「なっ……ふざけるなよ! あれは元々お前が……!」
「ああ煩い、嘘だ嘘。仕返しなどしてお前と同じ程度に落ちては堪らぬ」
「お前はっ! どうしてそういつも――」
もう我慢できないと、山ノ神の胸倉に掴みかかる火ノ神。山ノ神はそんな青年の様子を呆れたように見下ろし、鼻で軽く笑っている。
いきなり始まった喧嘩にハツメは思わず顔を引きつらせた。
四神信仰の伝承では火ノ神は荒々しい気性の持ち主で、山ノ神は気難しく誇り高い、ということだった。
現実に二柱を前にして、確かに火ノ神は短気だし、山ノ神は自尊心が高そうだと思う。
だがこれではあまりにも――。
「しょうがない神様たちね、本当に」
ふいに女性の凪いだ声が、ハツメの頭上から落とされる。ハツメの頬の横を長く波打つ黒髪が流れ、微かだが潮の良い匂いが鼻孔をくすぐった。
「海ノ神様……」
「久しぶり、ハツメ」
ハツメの首に両腕を回すようにして背後から軽く抱き締めるのは、長身の美しい女性。
純白の衣に身を包んだ海ノ神は優しい視線をハツメに送ると、前で騒ぐ二柱を見やる。
「もういい加減仲良くしたらいいのに」
「俺を馬鹿にしてくるこいつに言ってくれ!」
火ノ神は海ノ神を見て、どこか縋るように声を張る。相変わらず両手は山ノ神の胸倉を掴んだままだ。
対する山ノ神はそれを払おうともせず、上がり気味の眉を寄せて言い放つ。
「矜持の欠片もない奴とは付き合えぬ。……それより。一柱いないようだが」
「皆変わらないわね。花ノ神ー。おーいーでー」
海ノ神は抱き留めるハツメの胸に手を置くと、天比礼を仕舞う位置をさする。
それを受け、ハツメの懐から青い光が溢れ出した。細かな青の煌めきと共に現れたのは、齢十つほどの小柄な少女。髪を複雑に編み込み、舞踊用の可愛らしい青衣を纏っている。
目が覚めるような鮮やかな外見だが、当の彼女は眠たげに眼をこすり、小さな口を開く。
「……あれ。やっと四神祭?」
「ここは谷ノ国ではないぞ」
想像よりも落ち着いた花ノ神の声に、山ノ神が溜息を吐きながら返す。
「……ああ、火ノ神の」
軽く周囲を見渡すと、彼女も事情を察したようだ。
今まで寝ていたのだろうか。ハツメと目が合っても、少女の姿をした花ノ神はぼんやりとした半目のままだった。それでもどこか目を惹く瑞々しい美しさは、青狼蘭の魅力とどこか通ずるものがある。
「久しぶり。今日は女の子なのね」
「気分がそうだったから」
海ノ神が和やかに笑いかければ、少女はこくりと頷いた。
自由奔放という話はその通りで、花ノ神も花ノ神で我が道を行きそうだ。段々と身の置き所がなくなってきたハツメが成り行きを見守る中、火ノ神が花ノ神に話しかける。
「花ノ神! なあ、また舞ってくれ。俺、毎年お前の舞が楽しみで……」
山ノ神の黒衣から手を離した青年が花ノ神に身体を向ける。高揚気味の火ノ神を、山ノ神は鬱陶しいとでも言いたげに乱雑に手を振った。
「ああ煩い。四神祭のときでいいだろう」
「だって四神祭、呼ばれないじゃないか!」
「それがね。谷ノ国は滅んだんですって」
海ノ神の声に、火ノ神の動きがぴたりと止まる。
「……は?」
「錫ノ国が滅ぼしたそうよ」
その憂いを含んだ言葉を受けて、火ノ神は前髪を掻き上げ、眉を寄せた。先程の怒りとはまた違う苛立ちに、彼によって創られた谷ノ国が一瞬ぐらりと歪む。
「なんだよそれ。こんな国、消して正解じゃないか。……早く終わらせよう」
そう言ってどことも知れぬ宙を見やった火ノ神の目に、ハツメは焦る。
過度に熱くも冷たくもない、その何ともない火ノ神の態度に、少なくとも火ノ神にとって人間の存在は軽いものなのだと、改めて思い知らされる。
こんな形で一国が滅ぶなど、冗談じゃない。
「お待ち下さい! この国を滅ぼすのはお止め下さい、火ノ神様! 私、それをお願いしたかったのです」
「何故? 谷ノ国はお前の故郷でもあるだろう。仕返しでもしたいのが普通だ」
勇気を振り絞ってハツメが言葉を紡ぎ出すと、火ノ神は訝しげに彼女を見る。彼が掻き上げた髪から手を離すと、絹糸のようにさらりと前髪は戻っていく。黒髪の下の涼やかな目に見つめられながら、ハツメは真摯な心を投げかけた。
「それでも。故郷は私だけにあるものじゃないから。私は仕返しではなく、争いを終わらせるためにここまで旅してきたのです」
「神宝を集めて運んでくれたのも、それが理由みたいよ」
いつの間にかハツメから離れていた海ノ神が、穏やかな表情で火ノ神に囁く。
「この戦が終わったら谷ノ国に帰ります。今年からはまた四神祭を行いますので、どうか怒りをお収め下さい」
「なんだ。じゃあその為にお前と……三柱は揃って俺の邪魔をしに来たのか」
ハツメと周りの三柱の様子を窺う火ノ神に、山ノ神が仕方なさげに言い放つ。
「こんな醜態、からかうどころか目も当てられぬからな」
「ふーん……」
何かを考えるように視線を落とす、アサヒによく似た青年。小さな偽りの国に流れ始めた緩やかな空気から、彼の心が落ち着いていくのが感じ取れた。
ふいに、山ノ神が口を開く。
「――誰か外にいるな」
「人の子か」と彼が視線を宙にやったと同時に、広場に声が届く。
――ハツメ!
「……アサヒ?」
姿は見えない。だが、確かに彼は近くにいる。
「四神か谷ノ民じゃないとここには入れない。普通の人間が神宝を触れないのと同じだ」
「神宝に触れられたら良いのでしたら、アサヒは大丈夫です」
特に感慨もなく火ノ神が言ったその言葉に、ハツメは柔らかく微笑んだ。
「生まれが違っても、アサヒは谷ノ国の人間ですから」
広場の一角が蜃気楼のように霞んでいく。
ちらちらと現れた赤い炎が大きくなれば、その中からふっと、彼が出てきた。
「ハツメ!」
アサヒはすぐにハツメを見つけると、一目散に駆けてくる。
ハツメもまたアサヒに飛び付くと、二人はきつく抱き合った。
「アサヒ――」
「いつかの少年か。もう天剣の跡はないようだが……まあ、理由は察しろ」
掛けられた声に二人は顔を上げる。尊大な態度の山ノ神と目が合えば、山ノ神はちらりと火ノ神を流し見た。
ハツメしか見えていなかったアサヒが周囲に気付き、目を見張る。
谷ノ国の光景。その中に佇む四人が人間の姿をした四神だと、一目で分かったようだ。
実際人の形をしているとはいえ、それぞれが浮世離れした雰囲気を持っていた。
そして彼が何よりも凝視するのは火ノ神。同じ空間で見ても二人はそっくりなのだから当然だ。
山ノ神の言い分を察するに、天剣でアサヒが傷を負ったのは火ノ神と瓜二つだったからなのだろう。とんだとばっちり――とはいえ、あからさまに嫌な顔をするわけにもいかないし、それ以前に驚きが大きいようで、アサヒはただ口を小さく開けているだけだった。
言い出す機会を待っていたのか、青衣を着た少女が静かに唇を開いた。
「……そろそろ帰る」
「え――」
淡白な花ノ神の言葉に火ノ神の目が大きく揺らいだ。
「大丈夫よ。来年は四神祭があるもの。……ね?」
海ノ神は火ノ神を宥めるように言うと、ハツメに視線を移し、優しく首を傾ける。
その慈しむ様な瞳にハツメは大きく頷いた。
アサヒと手を取り合いながら。ハツメは晴れやかな顔で、火ノ神へと口を開く。
「火ノ神様。アサヒは火ノ神様が育んだこの国の子です。縁あって谷ノ地に着き、四神様の息吹を感じて生きてまいりました。私はアサヒと谷ノ地へ戻り、四神様の恩恵と畏怖を次代へと伝えます。四神様のことはこれからも忘れられることなく、人間の営みの中で受け継がれます。ですからどうか、この国を見捨てないで頂きたいのです」
じっと話を聞く火ノ神に、ハツメは微笑みかける。
「この国で生まれたアサヒのお陰で、私はここに導かれたのです。この国を育み、アサヒに生を授けてくれたことに。心より感謝いたします、火ノ神様」
穏やかなハツメの言葉と共に、渓谷の地中に爽やかな風が吹く。
ハツメの豊かな髪がふわりと舞い、アサヒの深い黒髪がさらりと流れる。
「……このように感謝されるのは、いつ振りだったかな」
額に手を添え、ぽつりと火ノ神は呟いた。
「谷の娘と俺の国の子。――俺の気が変わらない内に早く行け」
そうして、それぞれが一時の別れを感じ始めた。
山ノ神は火ノ神を物珍しげに覗き込むと、反応を窺うようにして口を開く。
「我らも帰るぞ」
「分かってるよ! ……本当に四神祭で会えるんだろうな」
「それはお前次第だろう。せいぜい神らしく、大人しくしておけ」
どこかからかうような山ノ神の口調に火ノ神は口を尖らせたが、特に険悪な空気ではなさそうだ。機嫌さえ良ければ、これが二柱の平常なのかもしれない。
「じゃあ、また四神祭で集合ということでいいかしら。……ありがとう、ハツメ、アサヒ。またね」
苦笑気味の海ノ神が二人へと手を振る。
花ノ神は最後まで、ぼんやりとどこでもない方を向いていた。
四柱の神と二人の人の子は互いを見やりながら、火ノ神が創りあげた谷ノ国の風に溶け込んでいく。
現の世界に戻るまで、ハツメとアサヒはしっかりと手を繋ぎ、互いの存在を失くさないようにしていた。
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