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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第四章 錫ノ国編
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第百八十話 四神の息吹 二

 天剣(あまのつるぎ)から盛る漆黒の炎。その中から一人が現れると、炎は次第に収まっていった。


 一人と一柱の前に現れたのは、黒一色に身を包んだ男。一見すると簡素な黒の衣だが、使われた布の上質さからはその男のこだわりを感じさせる。歳は三十手前か。もう少し若いかもしれないが、火ノ神に比べると随分と落ち着いた印象を受けた。


 気位の高そうな男の眉目が、火ノ神に向く。


「人間の娘相手にむきになりおって。相変わらず恥ずかしい奴だ」


「山ノ神……!」


 声を掛けられて確信したのだろう。火ノ神は一歩後ずさり、目を見開く。

 ハツメと同様驚いた様子の彼だったが、すぐに目を尖らせると現れた男に罵声を浴びせた。


「勝手に入って来るなよ! 今まで放置してたくせに! 今さら何の用だ!」


 今にも噛み付きそうな形相で怒る火ノ神に、山ノ神は薄く笑いかける。


「迎えに来た――というのは嘘だ。そうだな、いつかの仕返しに来たと言ったらどうする」


「なっ……ふざけるなよ! あれは元々お前が……!」


「ああ煩い、嘘だ嘘。仕返しなどしてお前と同じ程度に落ちては堪らぬ」


「お前はっ! どうしてそういつも――」


 もう我慢できないと、山ノ神の胸倉に掴みかかる火ノ神。山ノ神はそんな青年の様子を呆れたように見下ろし、鼻で軽く笑っている。


 いきなり始まった喧嘩にハツメは思わず顔を引きつらせた。

 四神信仰の伝承では火ノ神は荒々しい気性の持ち主で、山ノ神は気難しく誇り高い、ということだった。

 現実に二柱を前にして、確かに火ノ神は短気だし、山ノ神は自尊心が高そうだと思う。

 だがこれではあまりにも――。


「しょうがない神様たちね、本当に」


 ふいに女性の凪いだ声が、ハツメの頭上から落とされる。ハツメの頬の横を長く波打つ黒髪が流れ、微かだが潮の良い匂いが鼻孔をくすぐった。


「海ノ神様……」


「久しぶり、ハツメ」


 ハツメの首に両腕を回すようにして背後から軽く抱き締めるのは、長身の美しい女性。

 純白の衣に身を包んだ海ノ神は優しい視線をハツメに送ると、前で騒ぐ二柱を見やる。


「もういい加減仲良くしたらいいのに」


「俺を馬鹿にしてくるこいつに言ってくれ!」


 火ノ神は海ノ神を見て、どこか縋るように声を張る。相変わらず両手は山ノ神の胸倉を掴んだままだ。

 対する山ノ神はそれを払おうともせず、上がり気味の眉を寄せて言い放つ。


「矜持の欠片もない奴とは付き合えぬ。……それより。一柱いないようだが」


「皆変わらないわね。花ノ神ー。おーいーでー」


 海ノ神は抱き留めるハツメの胸に手を置くと、天比礼(あまのひれ)を仕舞う位置をさする。

 それを受け、ハツメの懐から青い光が溢れ出した。細かな青の煌めきと共に現れたのは、齢十つほどの小柄な少女。髪を複雑に編み込み、舞踊用の可愛らしい青衣を纏っている。

 目が覚めるような鮮やかな外見だが、当の彼女は眠たげに眼をこすり、小さな口を開く。


「……あれ。やっと四神祭?」


「ここは谷ノ国ではないぞ」


 想像よりも落ち着いた花ノ神の声に、山ノ神が溜息を吐きながら返す。


「……ああ、火ノ神の」


 軽く周囲を見渡すと、彼女も事情を察したようだ。

 今まで寝ていたのだろうか。ハツメと目が合っても、少女の姿をした花ノ神はぼんやりとした半目のままだった。それでもどこか目を惹く瑞々しい美しさは、青狼蘭の魅力とどこか通ずるものがある。


「久しぶり。今日は女の子なのね」


「気分がそうだったから」


 海ノ神が和やかに笑いかければ、少女はこくりと頷いた。

 自由奔放という話はその通りで、花ノ神も花ノ神で我が道を行きそうだ。段々と身の置き所がなくなってきたハツメが成り行きを見守る中、火ノ神が花ノ神に話しかける。


「花ノ神! なあ、また舞ってくれ。俺、毎年お前の舞が楽しみで……」


 山ノ神の黒衣から手を離した青年が花ノ神に身体を向ける。高揚気味の火ノ神を、山ノ神は鬱陶しいとでも言いたげに乱雑に手を振った。


「ああ煩い。四神祭のときでいいだろう」


「だって四神祭、呼ばれないじゃないか!」


「それがね。谷ノ国は滅んだんですって」


 海ノ神の声に、火ノ神の動きがぴたりと止まる。


「……は?」


錫ノ(この)国が滅ぼしたそうよ」


 その憂いを含んだ言葉を受けて、火ノ神は前髪を掻き上げ、眉を寄せた。先程の怒りとはまた違う苛立ちに、彼によって創られた谷ノ国が一瞬ぐらりと歪む。


「なんだよそれ。こんな国、消して正解じゃないか。……早く終わらせよう」


 そう言ってどことも知れぬ宙を見やった火ノ神の目に、ハツメは焦る。

 過度に熱くも冷たくもない、その何ともない火ノ神の態度に、少なくとも火ノ神にとって人間の存在は軽いものなのだと、改めて思い知らされる。


 こんな形で一国が滅ぶなど、冗談じゃない。


「お待ち下さい! この国を滅ぼすのはお止め下さい、火ノ神様! 私、それをお願いしたかったのです」


「何故? 谷ノ国はお前の故郷でもあるだろう。仕返しでもしたいのが普通だ」


 勇気を振り絞ってハツメが言葉を紡ぎ出すと、火ノ神は訝しげに彼女を見る。彼が掻き上げた髪から手を離すと、絹糸のようにさらりと前髪は戻っていく。黒髪の下の涼やかな目に見つめられながら、ハツメは真摯な心を投げかけた。


「それでも。故郷は私だけにあるものじゃないから。私は仕返しではなく、争いを終わらせるためにここまで旅してきたのです」


神宝(かんだから)を集めて運んでくれたのも、それが理由みたいよ」


 いつの間にかハツメから離れていた海ノ神が、穏やかな表情で火ノ神に囁く。


「この戦が終わったら谷ノ国に帰ります。今年からはまた四神祭を行いますので、どうか怒りをお収め下さい」


「なんだ。じゃあその為にお前と……三柱は揃って俺の邪魔をしに来たのか」


 ハツメと周りの三柱の様子を窺う火ノ神に、山ノ神が仕方なさげに言い放つ。


「こんな醜態、からかうどころか目も当てられぬからな」


「ふーん……」


 何かを考えるように視線を落とす、アサヒによく似た青年。小さな偽りの国に流れ始めた緩やかな空気から、彼の心が落ち着いていくのが感じ取れた。


 ふいに、山ノ神が口を開く。


「――誰か外にいるな」


「人の子か」と彼が視線を宙にやったと同時に、広場に声が届く。



 ――ハツメ!



「……アサヒ?」


 姿は見えない。だが、確かに彼は近くにいる。


「四神か谷ノ民じゃないとここには入れない。普通の人間が神宝(かんだから)(さわ)れないのと同じだ」


神宝(かんだから)に触れられたら良いのでしたら、アサヒは大丈夫です」


 特に感慨もなく火ノ神が言ったその言葉に、ハツメは柔らかく微笑んだ。


「生まれが違っても、アサヒは谷ノ国の人間ですから」


 広場の一角が蜃気楼のように霞んでいく。

 ちらちらと現れた赤い炎が大きくなれば、その中からふっと、彼が出てきた。


「ハツメ!」


 アサヒはすぐにハツメを見つけると、一目散に駆けてくる。

 ハツメもまたアサヒに飛び付くと、二人はきつく抱き合った。


「アサヒ――」


「いつかの少年か。もう天剣(あまのつるぎ)の跡はないようだが……まあ、理由は察しろ」


 掛けられた声に二人は顔を上げる。尊大な態度の山ノ神と目が合えば、山ノ神はちらりと火ノ神を流し見た。


 ハツメしか見えていなかったアサヒが周囲に気付き、目を見張る。

 谷ノ国の光景。その中に佇む四人が人間の姿をした四神だと、一目で分かったようだ。

 実際人の形をしているとはいえ、それぞれが浮世離れした雰囲気を持っていた。


 そして彼が何よりも凝視するのは火ノ神。同じ空間で見ても二人はそっくりなのだから当然だ。

 山ノ神の言い分を察するに、天剣(あまのつるぎ)でアサヒが傷を負ったのは火ノ神と瓜二つだったからなのだろう。とんだとばっちり――とはいえ、あからさまに嫌な顔をするわけにもいかないし、それ以前に驚きが大きいようで、アサヒはただ口を小さく開けているだけだった。


 言い出す機会を待っていたのか、青衣を着た少女が静かに唇を開いた。


「……そろそろ帰る」


「え――」


 淡白な花ノ神の言葉に火ノ神の目が大きく揺らいだ。


「大丈夫よ。来年は四神祭があるもの。……ね?」


 海ノ神は火ノ神を宥めるように言うと、ハツメに視線を移し、優しく首を傾ける。


 その慈しむ様な瞳にハツメは大きく頷いた。

 アサヒと手を取り合いながら。ハツメは晴れやかな顔で、火ノ神へと口を開く。


「火ノ神様。アサヒは火ノ神様が育んだこの国の子です。縁あって谷ノ地に着き、四神様の息吹を感じて生きてまいりました。私はアサヒと谷ノ地へ戻り、四神様の恩恵と畏怖を次代へと伝えます。四神様のことはこれからも忘れられることなく、人間の営みの中で受け継がれます。ですからどうか、この国を見捨てないで頂きたいのです」


 じっと話を聞く火ノ神に、ハツメは微笑みかける。


「この国で生まれたアサヒのお陰で、私はここに導かれたのです。この国を育み、アサヒに生を授けてくれたことに。心より感謝いたします、火ノ神様」


 穏やかなハツメの言葉と共に、渓谷の地中に爽やかな風が吹く。

 ハツメの豊かな髪がふわりと舞い、アサヒの深い黒髪がさらりと流れる。


「……このように感謝されるのは、いつ振りだったかな」


 額に手を添え、ぽつりと火ノ神は呟いた。


「谷の娘と俺の国の子。――俺の気が変わらない内に早く行け」




 そうして、それぞれが一時の別れを感じ始めた。

 山ノ神は火ノ神を物珍しげに覗き込むと、反応を窺うようにして口を開く。


「我らも帰るぞ」


「分かってるよ! ……本当に四神祭で会えるんだろうな」


「それはお前次第だろう。せいぜい神らしく、大人しくしておけ」


 どこかからかうような山ノ神の口調に火ノ神は口を尖らせたが、特に険悪な空気ではなさそうだ。機嫌さえ良ければ、これが二柱の平常なのかもしれない。


「じゃあ、また四神祭で集合ということでいいかしら。……ありがとう、ハツメ、アサヒ。またね」


 苦笑気味の海ノ神が二人へと手を振る。

 花ノ神は最後まで、ぼんやりとどこでもない方を向いていた。


 四柱の神と二人の人の子は互いを見やりながら、火ノ神が創りあげた谷ノ国の風に溶け込んでいく。

 (うつつ)の世界に戻るまで、ハツメとアサヒはしっかりと手を繋ぎ、互いの存在を失くさないようにしていた。

お読み頂きありがとうございます。

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