第百七十九話 四神の息吹 一
火照った身体を冷ましていく、剥き出しの岩肌の感触。
うつ伏せに頬を付けていても嫌でないのは、どこか慣れ親しんだものだからか。
ハツメは五つの指で優しく地面を撫でると、昇りたての日に包まれているような、懐かしいまどろみから目を覚ました。
先程まで、正階段前の広場にいたはずだ。
アサヒの手を握ろうとしたとき、突然赤い炎に包まれて。彼を見失ってしまったのだ。
ハツメはおもむろに身体を起こすと、自分を囲む風景に目を丸くする。
どくん、と大きく胸が跳ね打った。
辺りを見渡すまでもなく分かる、『自分の場所』。
「ここ……谷ノ国……?」
ハツメが足をつけるところは谷ノ国の広場。渓谷の地下に掘られた、円形の広い部屋。川のせせらぐ音がして思わず広場の窓穴から身を乗り出せば、無数の吊り橋が架かっていた。あの日と変わらない穏やかな風が、ハツメの柔らかい黒髪を靡かせる。
――ああ。この安らぐ感じ、谷ノ国だ。
まだ錫ノ国が攻めてくる前の、谷ノ国。亡くしたはずの、自分の故郷。
「お前も気に入ったよね、谷の娘」
突然降りかかった声に驚き、後ろを振り向く。
広場の中、ハツメから数歩下がったところに立っていたのは、二十歳ほどの若々しい青年だった。濃淡様々な赤一色の衣を纏った、均整の取れた身体。その容貌は美しく、さらりとした黒髪、陶器のような色白の肌、涼やかな顔立ち。
「……アサヒ?」
ハツメはそう呟いた後で、そんなわけない、と思い直した。
歳はアサヒより上のようだし、黒髪も耳やうなじまでの長さのアサヒとは違い、胸の辺りまで伸ばしている。そしてハツメを見る眼差しも、アサヒの優しいものとは違った。眼前の男は友好的ではあるものの、明らかに初対面の人間を見る目でハツメを見ている。
それでも、他でもないハツメが一瞬アサヒと見紛うほどに、青年は彼にそっくりだった。
ハツメの呟きなど気にも留めずに、目の前の青年は話を続ける。
「誰も俺のことを気に掛けてくれないから、一旦全部まっさらにしようと思ってたところなんだけど。……まさか神宝を揃えて谷の娘が訪れるとは思わなかったな」
赤衣に付いた装飾を揺らめかせながら、青年がハツメに歩み寄る。そうして彼女の全身を隅々まで眺めると、彼は満足気に顔を綻ばせた。
「ああ、懐かしいな。お前を見ていると谷ノ地で過ごしていたあの日々のように、心が充たされる。……神宝があるからかな。あいつらの存在を感じることができる」
「貴方……火ノ神様?」
「いかにも」
ハツメの問いに、青年は和やかな態度で頷く。
口調は少年のようにあどけない。だがこうして間近で見ると艶々しい色香も感じられて、ハツメは不思議な思いだった。至近距離まで近付いた火ノ神に目が離せなくなっている中、彼は話し出す。
「寂しかった。谷ノ地に置いていかれて、あいつら同様にこの地で国を作ってみたは良いけど……。恋しい気持ちは忘れることが出来なかった。年に一度谷ノ地で会うことは出来たけど、それでも足りない。――ついに去年は呼ばれることもなかったし」
去年は四神祭ができていないから、四神も帰郷できなかったのだ。
海ノ神が気に掛けたのと同様に、火ノ神も心に引っ掛かっていたようだ。
「外はいつにも増して賑やかだしさ。俺の気も知らないで好き勝手騒ぐなら、いっそのこと誰もいない方が楽かと思ったんだけど……。お前が来てくれた」
火ノ神の豪奢な赤衣がハツメを包む。
アサヒと同じ黒髪は、小さな動きにもよく揺れる。彼は髪をさらりと流しながらハツメを見下ろすと、彼女の右の頬に熱い手を添えた。
「ここで共に生きよう。お前と神宝があれば俺は孤独じゃない。この懐かしい谷ノ地で、いつまでも一緒に暮らそう」
火ノ神はハツメに向かって柔らかく目を細める。アサヒとそっくりのようで、その双眸の奥にあるのは彼女への愛情ではなく、自身の孤独への恐れ。
きっと、神宝を揃える前のハツメなら。アサヒと結ばれる前のハツメなら。
この身勝手な神の申し出を神命として受け入れていただろう。それで国が、大陸が救われるのなら。
だが今のハツメは違う。四神は人間のように感情豊かで、火ノ神のように怒ることもあれば、海ノ神のように悔やむこともあるのだと知った。悔やむということは、これまでを振り返ることがあるということ。火ノ神にも自身の気持ちを伝え、思い返してもらうこともできるはずだ。
それになにより、ハツメにはアサヒがいる。彼と共に生きると、誓い合ったのだ。
「……困ります。私、火ノ神様が国を滅ぼすのを止めて、本当の谷ノ国へ帰るのです。そのために来ました」
「……なんだよ」
ハツメが真っ直ぐに火ノ神を見上げれば、沸々と、彼の情念が煮え滾っていくのが分かった。
「お前も俺を置いていくのか! 何が不満だ! お前と過ごしやすいように俺は人間の男の姿になった。谷ノ地だって、お前も思い入れがあると思って――」
アサヒによく似た青年が喚き出す。
火ノ神は気が短いというのは本当のようだ。
彼が創りあげた世界は荒ぶる彼の心情に共鳴し、熱い揺らぎを生じさせている。
ハツメの頬に触れた火ノ神の熱い手がさらに熱を帯びていく。
「――帰さない。帰さないぞ、谷の娘! お前は絶対に手放さない」
燃え盛る赤い炎が一人と一柱を包む込む。
火ノ神がハツメを固く抱き締めれば、焦がされるような焼けつく痛みがハツメを襲う。
喉が熱い。声を出そうと思っても、出るのは掠れた、か細い息のみ。
火に絡め取られて動けないハツメを片手で抱きながら、火ノ神はしなやかな動作で右手をかざした。
人差し指のその先に炎と灯すと、唇を微かに開いて息を吐く。蝋燭の火を吹き消すような吐息だったが火は消えず、それは指の先で炎と絡み合う。次第に密になり形作られたそれは、銀色の丸い靄。
火ノ神は甘い果実を食べるかのようにそれを口に含むと、ハツメの顎に手をやり、顔を近付ける。
何を自分に吹き込もうとしているのか。
ハツメには分からないが、拒否しなければいけないことだけは明らかだった。
だがそれでも、言葉は発せず、身体は動かない。
次第に近付いてくる火ノ神に胸が激しくざわめき、唇が小さく震え出す。
アサヒとそっくりな青年の顔が眼前に迫る。
繊細な睫毛に縁取られるのは深い黒の瞳。その奥を覗くのが怖くなり、ハツメは固く目を閉じた。
二つの唇が触れるか触れないか。
あと少しのところで、ハツメは唐突に突き飛ばされた。
よろけたハツメが驚いて目を開けると、火ノ神は慌てた様子でハツメと距離を取り、こちらを凝視している。
次いで彼女の視界にちらついたのは、黒い炎。
思わず腰に差した天剣を見やれば、剣と鞘の隙間から黒炎が溢れ出している。
火ノ神に解放されたハツメは剣の柄に手を掛ける。導かれるように、ゆっくりと剣を抜く。
剣身が顔を出した瞬間から、吹き出す黒炎は勢いを増した。
あっという間に、人一人を覆うほどに燃え盛った漆黒。
ハツメと火ノ神が見つめる中。――その炎より、一人の男が姿を現した。
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