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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第四章 錫ノ国編
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第百七十八話 セイヨウ戦 六

 ――どれくらい大きくなったか、私に見せて。


 そう愉しげな表情で唇を開いたイチルに向かい、アサヒは渾身の力で地を蹴った。

 姿勢を低くし、一瞬溜めをつくり――自身の敵を一閃しようと、彼はイチルを真っ直ぐに見据える。


 アサヒの一振りを、イチルは最小限の足運びで(かわ)した。

 続く早い切り返しにも、彼は距離を離すことなくするりと抜ける。


「相手が綻びを見せるまで動いてはいけないよ」


 その余裕あるイチルの声に、アサヒはぎり、と歯を食いしばる。



 どんなに目を凝らしても、隙など見当たらないではないか。

 相手の一挙一動に集中するが、どこに攻めても掠る気すらしない。

 それどころか、一歩間違えればこちらが持っていかれるような、これまで見てきた中での最も完璧な立ち居振る舞い。



「ああそうか。ヒダカにとっては時間がないものね」


 ほらおいで、と言わんばかりにイチルは顎を反らす。

 わざとらしく作られた大きな綻びに、遊ばれているのだ、とアサヒは思う。

 彼にとっては異母弟(おとうと)と家出する前の、ほんの少しの戯れなのかもしれない。


 誘いにのるべきじゃない。


「ヒダカ?」


「――俺はヒダカじゃない」


 素の自分がふっと発した言葉だった。


 だが、その自分で言ったことが不思議な響きをもって心に落ちていく。

 抱えていたものが取り払われる。

 将としての自分ではなく、谷ノ国で育った自分が姿を見せる。



 ハツメは無事だ。おそらく火ノ神が彼女に危害を加えることはない。

 四神と一緒にいるのなら、国が滅びようと、大陸がどうなろうと。

 ハツメだけは助かる。



 とても感心できる考え方ではないだろう。

 アサヒのそれは全ての人間、ハツメの気持ちすらも無視したものだったが、今に限ってはそれでも良かった。


 自分の一番大切なものが守られていることに気付けば、心が軽くなる。

 ハツメのためにと振るってきた剣を、今だけは自分のために振るおうと思えるようになる。

 ハツメが無事ならば、あとは自分が彼女と生きるために。



 まっさらな心で相手に白刃を向け、穏やかな口調でアサヒは言った。


「イチル。俺はお前とも、ヒダカとも決別する。アサヒとして生きる」


「アサヒ――ね」



 イチルに接近したアサヒが下から抉るように剣を振り上げれば、その切っ先は相手の鼻先を掠めた。

 軍帽のつばが弾かれ、ふわりと宙を舞う。

 あらわになった金色の髪が風にさらされると、イチルはほんの少し目を細めた。


 軍帽が落ちる数瞬の間に、アサヒの剣は二度続けて光の弧を描く。


 一度目に切ったのは(くう)。前傾した姿勢で刃を走らせれば、それは避けたイチルの横を縦に裂く。

 勢いのまま相手の脇を抜けたアサヒは、すぐに振り返った。

 瞬間、目に映ったイチルの背。そこに一太刀浴びせようと、彼は剣身を斜めに斬り上げる。


 そうして放たれた二度目が触れたのは、イチルの軍服の詰襟だった。

 首皮に達するあと(わず)かのところで、アサヒの剣は腕ごと弾かれる。


 痺れて感覚を失った右腕は剣を落とさないようにするだけで精一杯。

 震える剣の柄を左手でも握ると、アサヒはきっ、とイチルを見上げる。


 振り上げた片脚を優雅に地へと戻すイチル。その瞳は冷静にアサヒを見据えていた。

 目にも留まらない早さで繰り出された上段の回し蹴りは、アサヒの剣が達するよりも一瞬早く、彼の腕を叩いていた。


「やっぱり許せないよ」


 髪をくしゃりと搔き上げながら、イチルは眉を寄せる。


 彼は心苦しそうに息を漏らすと、距離を取ったアサヒを追うように、軽やかな動作で地を蹴った。

 力を振り絞って突きを入れるアサヒの剣先に差し出したのは、自身の右の手の平。


 天剣(あまのつるぎ)によって何にも触れられなくなったイチルの右手に、アサヒの刃が突き刺さる。絹の白手袋に、見る見るうちに赤が滲む。

 だが彼はそうして自らの身体で剣を制止させると、そのまま身体を広げ、腕を伸ばした。


 空いた左手は、アサヒの白い首筋へ。


「つかまえた」


 イチルの細長い指がすらりと伸び、寸分違わずにアサヒの頸動脈に添えられた。


「――っ!」


 アサヒが左手でイチルの腕を掴むもびくともしない。

 この手を首から離さなければ、意識を落とされる。

 全身の肌が粟立った。


 一度突き切った右の剣は勢いが失われ、右手もこれ以上力が入らない。アサヒは柄から手を放す。


 両腕で相手の腕を掴んでも、イチルは動じなかった。

 アサヒが鋭くイチルを睨めば、イチルもまた(したた)かな目でアサヒに視線を返す。


 首筋に加えられた力に、アサヒが眩暈を感じたとき。


 再び大地が揺れ上がった。

 薄れがかった意識の中、視界に影が落ちる。

 なんとか全身で足掻こうと考えるも――先にイチルの手が、アサヒを離した。


 意味が分からぬまま、アサヒは襟を掴まれる。

 思い切り身体を引かれ、何かの激しい落下音と共に、二人は倒れ込む。


 追うようにして耳に雪崩れ込むのは、建物の崩壊していく音。

 仰向けの状態で頭上を見れば、土埃と共に大柱が倒れようとしているのが視界の隅に映る。

 自身らの戦っていた近くの表玄関が崩れているのだと、アサヒはこの時初めて分かった。



 宮殿の崩落は、しばらく続いた。



 周囲が落ち着いた頃。アサヒは身体を動かし始める。

 まだぼんやりとする頭を抱え、ずっと感じていた一人分の重みからゆっくりと抜け出す。


 アサヒに被さっていた相手はうつ伏せの状態で、顔は見えないが少なくとも動く気配はない。何かにぶつかったのか。周囲には瓦や柱が転がっているが、今の彼の上には何も上がってはいなかった。


 一歩下がり、(きびす)を返す。

 複雑な思いを抱えながら、足をハツメの元へと向かわせようと東の方角を見れば。

 ふいに、足元から声がした。


「……待って」


 アサヒへと、彼の左手が緩やかに伸ばされる。

 何も見えない暗がりの中で明かりを求めるような、か弱い動作だった。


「イチル。……悪い」


 振り返ったアサヒはその様子を見て一度だけ睫毛を震わせると、顔を背けて再び歩み出す。


 アサヒに伸ばされた腕は少しの間だけ(くう)をたゆたうと、じきに花が枯れるように、力なく地に落ちた。

お読み頂きありがとうございます。

アサヒ側の話を少し残しつつ、明日はハツメ視点になります。

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