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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第四章 錫ノ国編
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第百七十七話 セイヨウ戦 五

 火ノ神が身を置いているとされる赤の台地。その上に立てられたセイヨウ宮殿は、都下の様子とは全く異なっている。白灰色の石造りとは違い、華やかだが荘厳さをもった木造建築。その周囲には情緒溢れる庭園が広がる。


 宮殿の前には、その先が外界とは隔てられた空間であることを示すかのように大きな正門が建っていた。美しい白漆喰が映える四脚の太柱が、静かにアサヒを迎える。

 正門の先の光景を見やりながら、アサヒは意を決して石畳を踏みしめていく。


 暗くなった空よりもさらに暗い正門の黒影をくぐった先、宮殿の正玄関すぐのところに、彼は佇んでいた。


「おかえり。ヒダカ」


 そう言って明るい笑顔を向けるのはアサヒの七歳上の異母兄(あに)


「嬉しいな、ヒダカが自分から帰ってきてくれるなんて。待ってたんだ、今日はずっと」


 整った体躯に軍服を纏わせたイチルはこれまでと同様に軍帽を被っている。(かげ)ってはいてもその弱い日射を遮る理由は、彼の体質にある。母親よりもミヅハよりも、彼は日光に弱いのだ。


「そこをどいてくれ。東の庭園に用があるんだ」


「東――?」


「ハツメが火ノ神に連れて行かれた。それに、火ノ神を止めなければこの国は滅びるぞ」


「……ああ、そういうこと」


 アサヒからすれば、ここまできて争っている場合ではないのだ。国自体が滅びてしまえば、都下にいる者たちが何の為に戦っているのか分からなくなる。

 偽りない気持ちでアサヒは話したのだが、その説得の思いが込められた言葉にもイチルは表情を変えなかった。ただ甘く優しく微笑んで、彼は言う。


「いいじゃない。谷ノ民はそれらしく、四神とよろしくしていれば。それにこの国はもう、私たちには関係ないよ」


「関係ない?」


「うん。……ね、ヒダカ。一緒に死のうよ」


 甘ったるい蜜が肺を満たすような、不快な沈黙が流れる。


 アサヒは何も答えられなかった。彼の人となりは知らなくとも、これまでの言動からすればこういった気の触れたことは言いそうではあるが――ますます理解ができない。

 怪訝そうに眉を寄せると、イチルはくすり、と口の端を上げた。


「なんて。冗談だよ、一回言ってみたかったんだ。どんな反応するかなって」


 左手を自身の唇に寄せてくすくすと、少年のように笑うイチル。その小さな一人笑いが収まると、彼は「でも」と再び言葉を紡ぎ出した。アサヒを見る彼の焦げ茶色の瞳が、妖しい熱を帯びる。


「そんなに間違ってることでもない。一緒にさ、誰も私たちを縛らないところに行こう。ここで第一王子のイチルと、第二王子のヒダカは死んだことにするんだ」


 一言も反応しないアサヒに構わず、イチルは続ける。


「息苦しいよ、この世界は。嫌だったでしょう、反乱軍だの、父様だの。この世界はヒダカを傷付けるものばかりだ」


 動かせる左腕を(くう)にかざしながら話すイチルの様子は何かに陶酔しているわけでもなく、むしろ理性を感じさせた。それでも軍帽の下から覗く目には熱い想いをさらけ出し、その全ては余すことなくアサヒを向く。


「アカネちゃんだって結局は守れなくて、手放すしかなかった。……だけど私は違う。こんな世界からは切り離す。ヒダカを守り切るよ」


 受け入れられるかどうかはともかく。彼は本心から言っているのだとアサヒは感じた。


「最初からこのつもりだったのか」


「まさか。これを思い付いたのは海ノ国でミヅハと話したとき。そのときは可能性の一つだったけど、カラミのときは結構現実に考えてたかな」


 彼はアサヒの問いに素直に答えると、満足気に顔を綻ばせる。


「賢くて、優しい弟だよね、ミヅハは。私の意図を汲み取って、ちゃんとヒダカを理想的な形でここに送ってくれたんだから。……きっと良い国王になる」


 アサヒの頭に、出兵する前の夜にミヅハと交わした会話が蘇る。ミヅハがイチルの思惑を全て悟っていたとするならば、彼の言葉にあった『中立』の意味がはっきりする。どちらが勝とうが、ミヅハはこの国を継ぐつもりだったのだ。


「もちろんヒダカにとっても私と決着が付くのだし、この再会は必然なわけだ」


「……俺が嫌がってるのも分かってるんじゃないか」


「大丈夫、今だけだから。ちゃんと解るようになるよ」


 幼子を諭すような優しい口調でイチルは言う。

 結局はアサヒの意志など彼には関係ない。彼の独りよがりの善意の中に潜むのは過ぎた庇護欲。異母弟(おとうと)を失いたくないがゆえのイチルの偏った思考は、アサヒにとっては勝手な執着でしかない。


「無理だ。俺はお前とは行かない」


「そうだろうね。だから無理矢理でも連れて行く」


 アサヒのはっきりとした拒絶の言葉を聞いてもイチルの甘い表情は変わらない。だがその落ち着き払った声音はわずかに低くなり、アサヒの背筋を冷たく撫で上げた。


 殺意とは違うその圧に、アサヒはすぐさま剣を抜いた。生死ではない身の危険を本能が告げる。早くなる心の鼓動を、深い呼吸でもって意識的に抑え込む。

 

 アサヒに切っ先を向けられても、イチルは腰の剣を抜かなかった。手を不用心に空けたまま、彼はアサヒに一歩ずつ、ゆっくりと近付く。


「抜かないのか」


「意味もなく傷を付けてしまったら大変だもの。それに必要ないよ」


 勿体ぶるようにも、待ち侘びたようにも見えるイチルの足取り。彼は悠々とアサヒの元に進みながら、小さく首を傾ける。彼の滑らかな細い左手が、アサヒを優しく迎え入れるかのように伸ばされる。


「さあ、遠慮なくおいで。どれくらい大きくなったか、私に見せて」

お読み頂きありがとうございます。

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