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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第四章 錫ノ国編
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第百七十六話 セイヨウ戦 四

 反乱軍の戦の勝利条件が宮殿の占有だとするならば、現在の錫ノ国側の不敗条件は宮殿を奪われないことだ。

 その宮殿の正門にて。

 人払いを終えた宮殿の前に立つは、イチルとカリン。

 奪われてはいけないはずのそこには今、彼らしか残っていなかった。


「そろそろでございますわね」


「そうだね」


 突然の火山噴火、天災にも動じない彼らは、都を一望できる台地の上から、ただ自軍の押されていく様子を見下ろしていた。彼らからしたら、手さえ尽くせば後は時を待つのみだった。


 遠く、正階段を駆け上がる人影が二つ、カリンの目に入る。

 隣前に立つ主が何より望む人物と、その従者。

 自身に近付いてくるその様子を嬉しそうに見つめる主に、彼女はうやうやしく話しかけた。


「イチル様。……どうか。弟君と大切な時間をお過ごし下さいませ」


「カリンちゃん」


 その言葉に、イチルは少し驚いたようにカリンを見やる。


「従者は私が止めますわ」


 刻一刻と迫る時は、彼女自身いつからか覚悟していたこと。それでも震えそうになる声を隠すように、彼女は力を込め、声を精一杯振り(しぼ)る。


「イチル様。私はイチル様にふさわしい従者になれましたでしょうか」


 溢れそうになる感情をぐっと堪えながらイチルを見つめると、彼は甘く柔らかな、とろけるような笑顔を作った。


「私には勿体ないくらいだよ。ただ――私は従者だと思ってないのだけど、カリンちゃんのこと」


「っ……ありがたきお言葉です……」


 この微笑みを、この言葉を向けられて、自分はなんと幸せな人間なのだろうか。

 これほどまでに幸せならばこれから先も我慢できると、そうカリンが思ったとき。


 イチルの左手がカリンの頬に優しく添えられる。

 その出会った時と変わらない温かさに、泣くのを堪えたはずの彼女の目から、一滴(ひとしずく)だけ。

 熱い涙が落ち、イチルの親指を伝った。


「カリンちゃん。何があっても必ず生きるんだよ。せっかく豊かで美しい女性(ひと)になれたのだから」


 ――今この時は泣き顔など、見せたくはなかったのに。弱い自分が恨めしくて堪らない。


 口を引き結んだカリンがこくりと頷くと、イチルは彼女の頬に顔を寄せて、花の唇で囁いた。


「……ありがとう、カリンちゃん」


「行ってまいりますわ、イチル様」


 カリンは一歩後退すると、涙を拭い、姿勢よく一礼をする。

 イチルの手を自ら抜けた彼女は、最後まで堂々とした品のある振る舞いを彼に見せると、その場を静かに離れていった。



 *****



 宮殿に続く正階段は、つづら折りのように切り返しを作りながら台地の上へと繋がっている。

 美しく舗装された白い段差を登り、アサヒとシンがその半分を過ぎたところだった。


 上空から吹く疾風。その風を纏って、カリンが降ってきた。

 彼女の愛剣はかまいたちの如く、落下の勢いのままシンを狙う。


 シンは即座に自身の剣身でそれを受け止める。

 垂直に受け止めた彼だったが、重力による加速で増したカリンの剣圧を殺し切ることはできず、つづら折りを一つ分、カリンと共に落ちていく。

 もつれあった彼らは滑落が止まると、即座に距離を取り、互いに剣を構えた。


「想像以上にお元気そうで何よりですわ」


 顎を軽く上げシンを見やったカリンに構わず、シンは主の方を見上げる。


「アサヒ様――」


「この上まで行ってはお邪魔虫でしてよ」


 シンの言葉を切り捨てるように、カリンの情を排した声が響く。


 再び大地が大きく揺れるも、誰一人動じない。

 シンがアサヒを見つめるのと同様に。アサヒもまたカリンと対峙する彼を見つめ、その瞬間感じたままに――口を開いた。


「シン。俺は行く」


「……お気を付けて下さいませ、アサヒ様」


 アサヒはその言葉に頷くと、再び身体を正階段の先へと向ける。

 一人になった彼は宮殿へ向け、一心に走り出した。



 アサヒの中に、カリンを二人で相手するという選択肢は浮かばなかった。


 深く考えたわけではない。

 だが理由を付けるとすれば、一つは一刻も早くハツメの元に駆け付けたかったということ。


 そしてもう一つは、エンジュとカリンの戦う姿。二人の闘志を続け様に見て、相応の敬意を払わなければけないという気持ちが生じたのかもしれなかった。





 シンとカリンが刃を交えるのは三度目。

 階段の先からシンを見下ろしながら、カリンは愛剣を振るう。


「コトブキの屈辱、忘れたわけではございませんのよ」


「花ノ国で返されたと思っていたが」


「あれはリンドウの馬鹿もいたでしょう」


 そう言うと彼女はふっと高飛車な笑みを浮かべる。


「最後ですもの。死力を尽くさせて下さいませ」



 男ほどの体格、力を持ち合わせていないカリンだが、その実力は軍で一、二を誇る。

 彼女の優れた身のこなしと積んだ技量には誰しもが目を見張るが、特筆すべきは幼い頃から死線を潜り抜けてきた生への嗅覚。


 しばらく睨み合った二人。

 先に動き出したシンに、カリンもまた肉薄する。


 カリンはシンの狙い澄ました一閃を避けると、しなやかに肘を伸ばし、シンの胸へと突きを出す。

 動きに合わせて光沢を放つのは長年研がれ細くなった愛剣と、右手首にはめられた銀の腕輪。

 その光が描く剣筋をシンもまた(かわ)し、再び距離を取る。


 技を磨いた剣達者同士の戦いは、優劣が決まらないまましばらく続いた。





 何の為に生きてきたかを考えれば、最終的には自分の為だったのではないかとシンは思う。


 行商への興味がなければ口減らしを理由に故郷を出たりはしなかったし、元々縁がなかった山ノ国で剣技を修められたことも幸運だった。

 その後の長い一人旅は苦労も絶えなかったが、結果的にアカネに巡り合えた。第一夫人の派閥、そして出来ることならコウエンから主を守りたいと、そう望みながら刃を研ぎ続けた七年で残ったものは、けして苦労だけではない。アカネが死に、アサヒを見つけ出してからもそうだ。


 尽くしたいと思える人がいて、それが許されるということは何より幸せなことではないか。




 経験、努力、想いの種類に違いはあれど、それによって身に付けてきた力は拮抗していた。

 勝敗が決まったのは、本人そのものではなく。


 跳躍の勢いにのせて上段から振り下ろされるカリンの剣の筋、速度を、シンは刹那、精確に読み取った。

 その鋭い剣身を正面から受けようとはしない。

 内から薙ぐように、横に一振り。


 カリンの剣身の刃ではない、横の『腹』の部分を。

 彼は自身の剣でもって、渾身の力を込めて打ち叩いた。


 執着か、意地か。どれほど力を加えられても、カリンは柄を離さなかった。


 だがそれゆえに剣身が歪む。

 強く叩きつけられたところから、ぱきり、と小気味いい音を鳴らし――彼女の剣は折れた。


 離れた剣先は鈍色の光を放ちながら、階段を落ちていく。

 その行方を一瞬だけ見やった二人だったが、すぐに目を合わせると肢体を動かす。


 愛剣は折れても、彼女の心は折れず。

 カリンは素手でシンに飛びかかった。


 自身に伸びてくるカリンの右腕をシンが冷静に掴む。

 そのまま半身で受け流すと、彼は右手の剣からあえて手を離し。

 前のめりで背を見せた彼女のうなじに、鮮やかに手刀を落とした。




 ぐったりと意識を失ったカリンを片方の肩に背負い、シンは頭上を見上げる。

 宮殿の空には一層深い灰色が覆い、鬱々とした様相を見せていた。大地が大きく揺れれば、轟音と大きな悲鳴が下から響く。

 だがそれだけでなく、地鳴りに混じって上からなにやら音がする。その何かが崩れる響きに、彼の心は冷たくざわめいていた。

お読み頂きありがとうございます。

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