第百七十二話 出兵前夜 三
いつでも。戦の前は寝付きが悪い。
緊張、恐怖、けして楽しくはない高揚感。それらをすべて一人で昇華できる術をハツメはまだ身に付けていない。身に付くものかどうかはともかくとして、初めて剣を持ってからまだ二年にも満たないのだ。ざわつく心は誤魔化せない。どうしても目が冴えてしまう。
アサヒはもう寝ただろうか。二人でミヅハと話した後は先に屋内に戻ったハツメだったが、夜も随分と更けた。さすがに彼らも戻っているはずだ。
さほど広くはない、夜闇に満ちた部屋で一人、しばし逡巡した後。
ハツメは普段より重く感じる身体を起こすと、羽毛の詰まった大きな白枕を一つ、両腕で抱える。そして寝間着のまま、そろりと部屋を出た。
板敷きの長い廊下にはランプが一つだけ灯る。外へと続く裏口の近くで燃えるその前を通り過ぎ、彼の部屋の前で立つ。
カナトの別荘は大きいが部屋数が多いわけではないため、これまで個室を使うアサヒはトウヤと同室だった。だがトウヤは山ノ国と合流してから、向こうの野営地にいるはずだ。おそらく中にはアサヒが一人。
ハツメは部屋の前で控え目に、二回戸を叩いた。
時間の流れが遅く感じる。静寂の中待っていると、急に恥ずかしくなる。
顔の半分を柔らかい枕に埋めて、彼女は待っていた。
ほどなくして、すす、と音もなく引き戸が開いた。
ハツメがそっと目線を上げれば、同じく寝間着姿のアサヒがこちらを見下ろしていた。
「ハツメ」
少し驚いた様子のアサヒだったが、ハツメが胸に抱えた枕を見ると、優しく、愛おしむように目を細めた。
「おいで」
一つの寝床、一枚の毛布。既に温まっていたそれに包まり、二人は隣り合って横になる。
少しの時間が流れた後、薄暗い天井を見るハツメはそろ、と手を伸ばした。
温かみのある淡黄色の毛布の下、力の抜けた指先が、アサヒの眠る方へと伸びる。
ほんのわずか。ハツメの指の先がアサヒの手の甲に触れると、彼の手はすぐにハツメの求めに応じた。
アサヒはハツメの手を一度包むように撫でると、彼女の指を一本一本絡め取り、しっかりと握る。
きゅ、と込められた力にハツメが隣を見れば、アサヒもまた、彼女の方を見つめていた。
「ハツメが来るまで。初陣の前の夜を思い出してた」
「私も」
同じことを考えていたのだな、とハツメは頬を緩める。
彼が隣にいると、どんな夜も優しい気持ちになれる。どんな夜明けが待っていても、希望を持つことができる。
ハツメは落ち着いた声で言う。
「今も人を斬るのは怖い。でも、アサヒを守りたいのも本当」
「俺もだよ。戦う理由はあの時から変わってない。ハツメのため……って言ったら、重いだろうか」
「ううん。アサヒが想ってくれることなら、全部受け止める」
ハツメが素直に言葉を紡げば、彼は幸せそうに目を細めた。
「俺と一緒に生きて。ハツメ」
「うん。私もそうしたい」
ハツメもまた、気持ちを込めてアサヒに返す。
彼に伝えるだけでなく、自分の決意を一層固くするように。
穏やかな気持ちではあったが、彼女には一つだけ、拭い去れない不安があった。
「明日ね。何があっても一緒にいたい」
ハツメの胸をざわつかせるのは彼の異母兄、イチルの存在だった。
これまでのやり取りから、ただの戦で決着が着くとは到底思えない。
本当のことを言えば、あの人に会って欲しくない。できることなら止めたいとも思う。
それでも、この一方的な関係にけじめを付けなければいけないのなら。
せめてアサヒの側にいたい。
「絶対に付いていくから。……お願い。私から離れないで」
「ああ。――約束する」
ハツメが自分の手に力を込めると、彼もまた強い力で、その小さな手を握り返す。
約二年前にも握り合った二つの手は、今はもう、まめは潰れて皮膚は硬い。
だがそれが良いのだと、二人は思う。
二人が互いの為に剣を振るい続けたことの証明は、何よりも確かで、温かな感触だった。
お読み頂きありがとうございます。
少し短いですがキリが良かったのでここで。
明日からは最終戦になります。




