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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第四章 錫ノ国編
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第百七十一話 出兵前夜 二

「僕はまだいるから、二人とも帰りなよ。僕と違って戦場に立つんだからさ」


 土と草木の香りが立ち込める夏の夜。

 完全な静寂ではなく、人を含んだ生き物の気配がさわさわと耳元を震わせる。

 まだもう少しこの空気に浸っていたいと、ミヅハは二人に帰るよう促した。


 二人並んで帰る中。花の植わった裏庭から軒下にさしかかるところで、アサヒが立ち止まる。


「ハツメ。先に帰っててくれるか」


 アサヒより一歩進んだハツメが振り返ると、彼の目は優しい光を帯びていた。


「アサヒ」


「ちょっとだけミヅハと話してくる」


 その穏やかな口調に「行ってらっしゃい」とハツメが答えると、アサヒは小さく口の端を上げた。


 ハツメがしっかり屋内へと入ったのを見届けると、彼は踵を返す。

 今しがた来た道を戻れば、なおも少年はかがり火の群れをじっと見つめていた。


 膝を抱えて丸まった背にゆっくり近付く。

 小さい身体ながらに大きなものを抱えた少年の背は、何度見ても寂しさを漂わせていて。


 その姿に少しだけ眉を寄せたアサヒは、弟の小さな頭に、ぽん、と手の平を置いた。


 頭の上に感じた、かすかな重み。温かい手の平の感触に、ミヅハははたと振り返る。

 驚き、目を見開いた先にいたのは、もう一人の兄のアサヒの姿。


「大丈夫か」


 いつも通り涼やかに発せられた言葉に、一瞬遅れてミヅハは返す。


「……大丈夫だよ。覚悟はしてたって、何回言わせるんだよ」


 少し口を尖らせて彼は言うと、視線を逸らし、再び身体を前に向けた。

 アサヒは自然に彼の隣に座ると、やや俯いたミヅハの顔を軽く覗きこむ。


「ミヅハ」


 四歳下の弟に、アサヒは心から伝える。 


「ありがとう」


「別に。感謝されるようなことはしてない」


 ミヅハは抱えていた膝に自身の顔を埋めた。彼の肩にかからない程の黒髪が、袴の上にぱさりと落ちる。

 軽やかな夜の(そよ)風が、二人の髪を優しく撫でた後。

 身体越しに少し声をくぐもらせながら、少年は静かに呟いた。


「イチルのこと。尊敬してたんだ、これでも」


 アサヒに伝えたい気持ちは出しつつも、独白のように彼は続ける。


「僕が一人立ちできたのはあいつのお陰だしさ。僕が出ていった分、宮殿の全てを背負ったのもあいつなんだ。……あの女を殺したのも、きっと僕のせいだ」


「僕は、」そう言ってミヅハは顔を上げ、アサヒを見る。


 アサヒはただじっと弟の言葉を受け止めていた。

 そんなアサヒを真っ直ぐ見据えて、ミヅハは複雑そうに顔を歪ませる。


「僕はやっぱり中立だよ。今でも、イチルとお前、どっちが勝ってもいいと思ってる。ただ……もしできるなら、イチルをなんとかして欲しい。あいつ、もう限界だよ」


 繕いのない悲痛な声で、少年は紡ぐ。


「お前にしかできないんだ。僕じゃ無理だから……ごめん」


 そう言って目線を下げたミヅハに、アサヒは穏やかな、それでも頼もしい表情を見せた。


「俺も自分のけじめはつける。同じように、できることを為すよ」


「……ありがと」


 ミヅハはゆっくりと目を伏せた。彼もまた、優しい声音になっていた。


「もう寝ろよ。僕もすぐ行くからさ。やっぱり、一緒に戻りたくない」


「分かった。おやすみ」


 これ以上はかえって気を遣わせる。そう思ったアサヒはゆっくり立ち上がると、先に露芝の上を帰っていった。



 アサヒの気配が完全に消えた後。

 再び吹く柔らかな風に頬を撫でさせながら、ミヅハは紺色の夜を見た。



 ――ごめんヒダカ。それとハツメも。



「義理は返すよ。――イチル」





 それから数刻後。出兵を朝に控えた夜も更けた。


 皆が寝静まった頃、廊下を一人歩くのは平均より少し背が低い、二十歳の青年。

 暗い色で統一された出で立ちのカナトは、頭高くに結んだ髪を尻尾のように揺らす。


 歩き方は勇ましいが品がある。彼が家督を継いだのは十六歳のとき。成人を迎えての入軍と同時期に父親を亡くした彼は、軍閥の付き合いをこなしながら名家を守ってきた。人は見かけによらないものだと彼自身よく言われるが、世間の荒波に揉まれているのは間違いなかった。


 カナトが廊下の角を曲がろうとすると、進路の先に立つ一つの影が目に入った。


 背は彼よりもさらに低いが、女性だからおかしくはない。

 いつも活発に揺れる豊かな黒髪と珠のような瞳が印象的な、可愛げのある女子。

 それほど親しく話したことはないが話さない仲でもないため、深夜に何事かとカナトは声をかけようとする。

 なんとなく呼び続けている俗称で、廊下の先にいる彼女へと口を開こうとした。


「おい、橋ひ――むぐっ!?」


 突然背後から口をふさがれた彼は、やや引きずられるようにして廊下の角から連れ戻される。

 彼が話しかけようとしていた相手――ハツメから完全に離れたところで、彼の口と身体は解放された。


「なぜ話しかけようとしているのだ」


 よく聞き知った声に振り向けば、そこにいたのはアサヒと共に杯を交わしたもう一人の義兄弟。


「トウヤ! 山ノ国の野営地にいたのではなかったか」


「たまたま来ていたのだ。通りすがって良かった」


 若干呆れたように、トウヤが息を吐く。


「なぜだ。何か困っているのかも――」


「だからといって、枕ひとつ抱えた女子に話しかける奴などおらぬ。あれはアサヒのところに行くのだ」


 距離を詰めたトウヤが一字一句を少し強めに言えば、カナトは腑に落ちたように頷いた。


「あ……ああ、なるほど」


「本当にシンを目指しているのか? シンは二人にずっと付き添っていたが、ああいった時間のときは知らずと下がっていたぞ」


 トウヤはそう言って、落ちてきた前髪をはらりと除ける。

 自身はどうだったか、と頭の端で浮かんだ思いはすぐに掻き消した。


 カナトにはシンという名前が予想以上に効いたらしかった。

 彼は分かりやすく眉を下げると、申し訳なさそうにトウヤを見上げる。


「そうだよな。俺にはまだまだ配慮というものが足りん」


「……素直で真っ直ぐなところがお主のいいところだ」


 カナトの表情は彼の心の変化に合わせてころころ変わる。「錫ノ国にはある意味必要な人材かもしれぬ」とトウヤが言うと、途端、カナトの表情はからりと晴れたように笑顔になった。

お読み頂きありがとうございます。

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