第百七十一話 出兵前夜 二
「僕はまだいるから、二人とも帰りなよ。僕と違って戦場に立つんだからさ」
土と草木の香りが立ち込める夏の夜。
完全な静寂ではなく、人を含んだ生き物の気配がさわさわと耳元を震わせる。
まだもう少しこの空気に浸っていたいと、ミヅハは二人に帰るよう促した。
二人並んで帰る中。花の植わった裏庭から軒下にさしかかるところで、アサヒが立ち止まる。
「ハツメ。先に帰っててくれるか」
アサヒより一歩進んだハツメが振り返ると、彼の目は優しい光を帯びていた。
「アサヒ」
「ちょっとだけミヅハと話してくる」
その穏やかな口調に「行ってらっしゃい」とハツメが答えると、アサヒは小さく口の端を上げた。
ハツメがしっかり屋内へと入ったのを見届けると、彼は踵を返す。
今しがた来た道を戻れば、なおも少年はかがり火の群れをじっと見つめていた。
膝を抱えて丸まった背にゆっくり近付く。
小さい身体ながらに大きなものを抱えた少年の背は、何度見ても寂しさを漂わせていて。
その姿に少しだけ眉を寄せたアサヒは、弟の小さな頭に、ぽん、と手の平を置いた。
頭の上に感じた、かすかな重み。温かい手の平の感触に、ミヅハははたと振り返る。
驚き、目を見開いた先にいたのは、もう一人の兄のアサヒの姿。
「大丈夫か」
いつも通り涼やかに発せられた言葉に、一瞬遅れてミヅハは返す。
「……大丈夫だよ。覚悟はしてたって、何回言わせるんだよ」
少し口を尖らせて彼は言うと、視線を逸らし、再び身体を前に向けた。
アサヒは自然に彼の隣に座ると、やや俯いたミヅハの顔を軽く覗きこむ。
「ミヅハ」
四歳下の弟に、アサヒは心から伝える。
「ありがとう」
「別に。感謝されるようなことはしてない」
ミヅハは抱えていた膝に自身の顔を埋めた。彼の肩にかからない程の黒髪が、袴の上にぱさりと落ちる。
軽やかな夜の微風が、二人の髪を優しく撫でた後。
身体越しに少し声をくぐもらせながら、少年は静かに呟いた。
「イチルのこと。尊敬してたんだ、これでも」
アサヒに伝えたい気持ちは出しつつも、独白のように彼は続ける。
「僕が一人立ちできたのはあいつのお陰だしさ。僕が出ていった分、宮殿の全てを背負ったのもあいつなんだ。……あの女を殺したのも、きっと僕のせいだ」
「僕は、」そう言ってミヅハは顔を上げ、アサヒを見る。
アサヒはただじっと弟の言葉を受け止めていた。
そんなアサヒを真っ直ぐ見据えて、ミヅハは複雑そうに顔を歪ませる。
「僕はやっぱり中立だよ。今でも、イチルとお前、どっちが勝ってもいいと思ってる。ただ……もしできるなら、イチルをなんとかして欲しい。あいつ、もう限界だよ」
繕いのない悲痛な声で、少年は紡ぐ。
「お前にしかできないんだ。僕じゃ無理だから……ごめん」
そう言って目線を下げたミヅハに、アサヒは穏やかな、それでも頼もしい表情を見せた。
「俺も自分のけじめはつける。同じように、できることを為すよ」
「……ありがと」
ミヅハはゆっくりと目を伏せた。彼もまた、優しい声音になっていた。
「もう寝ろよ。僕もすぐ行くからさ。やっぱり、一緒に戻りたくない」
「分かった。おやすみ」
これ以上はかえって気を遣わせる。そう思ったアサヒはゆっくり立ち上がると、先に露芝の上を帰っていった。
アサヒの気配が完全に消えた後。
再び吹く柔らかな風に頬を撫でさせながら、ミヅハは紺色の夜を見た。
――ごめんヒダカ。それとハツメも。
「義理は返すよ。――イチル」
それから数刻後。出兵を朝に控えた夜も更けた。
皆が寝静まった頃、廊下を一人歩くのは平均より少し背が低い、二十歳の青年。
暗い色で統一された出で立ちのカナトは、頭高くに結んだ髪を尻尾のように揺らす。
歩き方は勇ましいが品がある。彼が家督を継いだのは十六歳のとき。成人を迎えての入軍と同時期に父親を亡くした彼は、軍閥の付き合いをこなしながら名家を守ってきた。人は見かけによらないものだと彼自身よく言われるが、世間の荒波に揉まれているのは間違いなかった。
カナトが廊下の角を曲がろうとすると、進路の先に立つ一つの影が目に入った。
背は彼よりもさらに低いが、女性だからおかしくはない。
いつも活発に揺れる豊かな黒髪と珠のような瞳が印象的な、可愛げのある女子。
それほど親しく話したことはないが話さない仲でもないため、深夜に何事かとカナトは声をかけようとする。
なんとなく呼び続けている俗称で、廊下の先にいる彼女へと口を開こうとした。
「おい、橋ひ――むぐっ!?」
突然背後から口をふさがれた彼は、やや引きずられるようにして廊下の角から連れ戻される。
彼が話しかけようとしていた相手――ハツメから完全に離れたところで、彼の口と身体は解放された。
「なぜ話しかけようとしているのだ」
よく聞き知った声に振り向けば、そこにいたのはアサヒと共に杯を交わしたもう一人の義兄弟。
「トウヤ! 山ノ国の野営地にいたのではなかったか」
「たまたま来ていたのだ。通りすがって良かった」
若干呆れたように、トウヤが息を吐く。
「なぜだ。何か困っているのかも――」
「だからといって、枕ひとつ抱えた女子に話しかける奴などおらぬ。あれはアサヒのところに行くのだ」
距離を詰めたトウヤが一字一句を少し強めに言えば、カナトは腑に落ちたように頷いた。
「あ……ああ、なるほど」
「本当にシンを目指しているのか? シンは二人にずっと付き添っていたが、ああいった時間のときは知らずと下がっていたぞ」
トウヤはそう言って、落ちてきた前髪をはらりと除ける。
自身はどうだったか、と頭の端で浮かんだ思いはすぐに掻き消した。
カナトにはシンという名前が予想以上に効いたらしかった。
彼は分かりやすく眉を下げると、申し訳なさそうにトウヤを見上げる。
「そうだよな。俺にはまだまだ配慮というものが足りん」
「……素直で真っ直ぐなところがお主のいいところだ」
カナトの表情は彼の心の変化に合わせてころころ変わる。「錫ノ国にはある意味必要な人材かもしれぬ」とトウヤが言うと、途端、カナトの表情はからりと晴れたように笑顔になった。
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