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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第四章 錫ノ国編
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第百六十九話 家族

本日の更新分、二話目になります。


 エンジュとリンドウが大将の執務室で過ごしているのと同刻。


 閑散とする宮殿の謁見室でイチルは一人、そっと玉座の背もたれを撫でた。一等上質で柔らかな手触りをもつ深紅の布は彼の左の指を優しく受け入れると、淀みなく表面を滑らせる。


 その心地に彼は目を細めると、軽やかに反転して玉座に座った。

 長い脚を組み、肘置きを使って頬杖を付く。部屋を見渡せばなんてことはない、いつもと視点が逆になっただけだ。


 並んだ窓に吊り下がる掛け布といい絨毯といい、濃淡はあれど全てが赤で覆われた部屋で、静かに瞼を閉じる。そのまま背もたれに体重を預けて自身の金色を深紅に擦りつけると、彼は柔らかく微笑んだ。


 そのまましばらく彼方に想いを馳せていると、誰もいなかった謁見室で、かすかに布が擦れる音がする。人が近付いてくるその音に気付きつつも、彼は一切の反応をしなかった。


「どういうこと……イチル」


 泣きそうな女性の声に、イチルはようやく目を開ける。玉座に座っている彼が少しだけ目線を上げると、黒一色の着物に身を包んだ母親が彼を見下ろしていた。


「知っていたのね。あの女の息子が生きていると」


 クロユリの唇は震えている。唇だけでなく、身体も時折ふる、ふる、と身震いしているようだった。


「御身体が冷えるなら、花茶をお淹れ致しましょうか? 母様」


「答えなさいっ!」


 今日は暑いくらいに太陽が照る日だ。

 頬杖をやめたイチルが普段と同じ声音でうやうやしく言うと、クロユリはすぐに怒りをあらわにした。


「……ええ。知っておりました」


 苦笑交じりにイチルは答える。


 息子の言葉に、クロユリは驚いたように目を見開いた。

 一度は狼狽した彼女だが、すぐに自分を取り戻し、呟く。


 それは低く、脅しを込めて。普段通りの、命令口調で。


「第二王子を殺して。ミヅハを取り返しなさい」


 彼女の口から出たその言葉は、広い謁見室の空気をぶる、と震わせた。



 ――しばしの静寂。



 水面の波紋のように広がった空気の震えが、再び凪いだ頃。


 イチルは平然とした様子で、はっきりと言った。


「できません」



「……何ですって?」


 生まれてこの方一度も聞いたことのなかった息子の返事に、彼女は耳を疑った。


「できません。ミヅハはもはや母様の人形ではないようです。それに」


 険相に歪んだ母親の顔を見上げたまま、イチルは続ける。


「ヒダカは私のもの。母様の命令なら大陸だろうが何だろうが手に入れますが、ヒダカだけは。


私はヒダカを守るためにいるので」


 意味など分からずともよい。

 初めて息子に拒否されたクロユリの驚きは、そのまま憤怒となって彼女の心から溢れ出る。

 甲高く彼女は叫んだ。


「お前が! ……お前が! 私の言うことを聞けないと言うのですか!」


「そうですね」


 なおも態度を変えない息子に、彼女は頭を殴られたように、ぐらりとふらついた。

 俯いた彼女は両腕で自身を抱きながら、絶えず浅い呼吸を繰り返す。


 過呼吸を起こした母親を、イチルはしばらくの間、玉座から無表情で眺めていた。



「……もう……あの人はいない……ミヅハも……」


 ようやく言葉を紡げるようになったクロユリがふっと顔を上げた。


「どうして残るのがお前なのです! お前など! お前など……!」


 栗色の髪を振り乱した彼女は、ありったけの憎悪を息子にぶつける。

 彼女の顔は怒りの色を通り越し、泣きそうな表情になっていた。――いや、実際に泣いていた。


「勝手に歩き始めたお前などもう要りません……イチル」


 クロユリは頬に涙を伝わせながら、帯の辺りに手を動かす。間に挟んだ護身用の懐刀を手に取ると、彼女は両腕でしっかりと柄を握り、イチルに振り上げた。


「……陛下はどうして私たちを見て下さらなかったのかしら」


 涙で潤む彼女の目は、自分似の息子を映していた。



 ――勝手がばれ、母親が自分を殺そうとしたとき。


 イチルは始め、彼女を返り討ちにしようと考えていた。


 だがこの瞬間、その思いは彼の中で消える。


 母親の手にかかる哀しみや怒りなどない。

 むしろ少し嬉しかった。


 『私たち』と言ってもらえたから。



 クロユリがイチルを生んだのはアカネが宮殿にきて間もなくのこと。

 待望の息子へ注がれるはずだった関心も、妻が母となったことに対する感謝や愛も得られず、彼女がイチルを育てている間も夫であるコウエンの目が彼らに向けられることはなかった。

 それは、イチル以上にクロユリが感じていた淋しさ。


 自分が努力し、縋っても。息子に努力させても。

 コウエンは自分たち親子を見ないまま、死者に執着し死んでいった。


 クロユリのイチルへの憎しみはいわば同族嫌悪。

 それは親子であるがゆえ。だからこその『私たち』。



 イチルは、自身に刃を掲げる母親の姿をただ見つめていた。




 クロユリが懐刀を持った両腕を振り下ろす最中だった。


 ずるり、彼女の身体が崩れ落ちた。


 力を失った彼女はイチルの身体に倒れ込む。

 懐刀が手を離れ、からんと音を立てて床に落ちた。

 息子に被さったまま静かに目を伏せたクロユリは、ほとんど苦しまない形で――命の灯を失った。



 倒れたクロユリの背後に立っていたのは、カリン。


 手にはイチルから授かった彼女の愛剣が握られていた。十二年間、大事に大事に扱ってきたその研ぎ澄まされた細い刃から、鮮やかな赤い血が滴り落ちる。


「っ……イチル様の御母上に手をかけた意味、分かっております。どうか私を処罰して下さいませ、イチル様」


 剣を下げ、はらはらと涙を流しているカリンに、イチルは切なげに微笑んだ。


「何言ってるの。カリンちゃんにそんなことできるわけないじゃない。……家族なんだから」


 窓から差す太陽が眩しい日。彼らにとって最後となる戦の準備が進む中での、宮殿での出来事だった。

お読み頂きありがとうございます。

二話前の後書きと活動報告にもお伝えしました通り、ひとまずラストまで書き上げてから更新を再開したいと思っております。

目標は二週間ですが、更新再開の日程が確定しましたらまたお知らせいたします。

改めまして、いつもありがとうございます。


※二月十日追記

予定より一日早めまして、二月十一日から連載を再開いたします。

予想よりも話数が増えてしまったので、たった一日ですが早くスタートしようかと思いまして。

最終戦もお付き合い頂けたら幸いです。

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