第百六十八話 一つの後悔
大遅刻してすみませんでした。
加えて本日更新分、内容が明るくないことも謝罪しておきます。
暗い話が苦手な方はご注意下さい。
また、ここで区切るつもりはなく、本日中にもう一話、錫ノ国側の話を上げさせて頂きます。
何卒よろしくお願いいたします。
宮殿のあちこちを回り終えると、汗をかきそうほど身体が熱をもっていることに気付いた。暖かいと感じる季節も終わり、また蒸し暑い夏に入るのだな、とエンジュは思う。
塵一つないよう掃われた濃茶色の廊下を戻り、執務室に通じる両扉の片側を押す。
中にいたのは弟分が一人のみ。
もはや定位置となった長椅子の端に体重を預けている彼は、手にしていた杯をかたり、と机に置いてからエンジュを見た。
「カリンはどうした」
「会いませんでした? 今出ていったんすけど、イチル様のところに行くーって」
リンドウはそう言いながら脇に置いていた一升瓶に手を伸ばす。杯を置いたのはエンジュが戻ったからではなく、次の一杯を注ぐためだったようだ。今さら彼の昼酒に苦言を呈する気にもなれず、エンジュはただ相槌を打つ。
「そうか」
特にカリンに用事があったわけではない。ただカラミの古城での戦以来、カリンは落ち込むでもなく、何かを考えていることが多くなった。それは彼女だけでなく他の人間も同様で、唯一変わらないのは目の前で杯を傾ける男くらいだ。
「いつにも増して難しい顔してるっすね」
「クロユリ様が見当たらんのだ」
リンドウと机を挟むようにしてエンジュが椅子に腰かける。普段は背もたれからいくらか背を離す彼が、今はぎし、と椅子の骨格を歪ませる。
「最近深夜もふらふらしてますもんね。ありゃーもう……」
リンドウは銀に縁取られた液面を見つめると、何かを思い出すように目を細めた。自重なんて言葉は仮に知ってても彼は意識しないだろうが、続きは語られることなく、熟酒と共に喉奥へと押し込められた。
「暗殺し損ねていた第二王子の生存に加え、ミヅハ王子が向こう側にいると分かったしな。イチル様もクロユリ様を無視して玉座を継ぐ声明を出すものだし、先の戦の後はましてあの場所にこもることが多くなった」
カラミの古城での戦はイチル側の快勝だった。イチルは実の父親を先王とし、エンジュは菊葉紋の長であったキダチを討ち、コウエン側の派閥はほぼ壊滅。落ち延びたほんのわずかな生き残りも、あとは没落していくだけだろう。
それでも、分かりきっていたことだが、主の母親の気が晴れることはなかった。愛されてはいなくても、愛していた夫を失ったのだ。自身が望んだことだというのにまして彼女はおかしくなり、極めつけは反乱軍の声明だ。
彼女はそれによってようやくアカネの実子の生存を知った。溺愛していたミヅハの行方も明らかになり、こともあろうことか反乱軍側が次王に立てているという。
花ノ国と山ノ国の声明よりも何よりも、彼女にとってはそれが最もこたえたようだった。
聞いていないことを自ら語る兄貴分も珍しいと、リンドウは自身の正面に座るエンジュを見やる。
「あの場所って、土蔵でしたっけ」
「昔イチル様がクロユリ様から虐待を受けた後に閉じ込められていたところだ」
いかなる場所でも体裁を繕う彼が直接的な表現を使うとは、いよいよ珍しい。
普段とは異なる彼の様子にリンドウは少し目を見張りながら、静かに銀杯に口を付ける。
透明な液面が、薄く形の良い唇から広がるように揺らいでいく。
彼がそのままくいと杯を傾けると、眼前のエンジュは何かを思い出すかのようにじっと目を伏せた。
*****
もう十二年前になるか。まだエンジュたちが召し抱えられてすぐの頃だった。
イチルから引き上げてもらった身とはいえ、左右どころか上下も分からないような軍内での生活に余裕はなかった。
身も心も殺されないよう、必死に毎日を生きる。
カリンやリンドウも自分のことで精一杯で、当然エンジュもそうだった。
夜。まださほど遅くない時間帯に、板敷きの廊下を十五歳のエンジュは密やかに歩く。
彼にとっては三歳年下の主へ、自身らの近況を報告するためだった。何のこともない用だが当時は別行動せざるを得ないことが多く、日中に会えることは稀。
だからこうして他の人間の目に付きにくい時間帯に、エンジュが主の元を訪れることがあった。年長の彼は他の二人に比べてまだ動きやすかったのだ。
王族の居住区に入る。
主の部屋までもう少し、というところでエンジュは足を止めた。
主室とは異なる部屋の引き戸の向こうから、主の名が聞こえたためだ。
「……イチル」
「母様」
返答の声は主のもの。いつもの少年ながらに濡れた声とは異なる、か細く、掠れた声だった。
「陛下は今度の北方への視察にアカネとその息子を連れていくのですって。……どういうことかしら」
主室の扉に比べて薄い引き戸は、夜の静けさも相まって一字一句はっきりと、そのやり取りをエンジュに聞かせる。
「あの息子、ヒダカとか言ったかしら。身体も心持ちも強くて、優秀なのですって。イチル貴方、さっきの陛下の手を見たでしょう。貴方は陛下に頭を撫でてもらえたことがあって?」
今日は王族一同が顔を合わせた日だったのか、とエンジュは思う。
それすらも知る余裕がなかったことに反省するが――今は、そんなことはどうでもいい。
引き戸越しでも感じられた。主と共にいる女性の、ふつふつと煮え立っていく苛立ちが。
その本来ならこらえるべき病的興奮は、彼女の覆いをあっさりと破ってしまった。
剥き出しにした感情が、言葉となり、力となり、容赦なく主に浴びせられる。
「なぜ。なぜ私から生まれたのが、欠陥品の方の貴方なのでしょう! どうして陛下の気を引けないの!? 答えなさいイチル!」
「――っ」
裏返った甲高い声に、なにかが叩きつけられる音。
主の声にならない悲鳴を、エンジュはこのとき聞いてしまった。
なにかを叩く音は数回続く。
一枚の引き戸越しにそれを聞く彼は、衝撃と恐怖で、その場から一歩も動くことができなかった。
ほどなくして、冷たく乾いた音は止んだ。
「土蔵……は、私が入れなくても勝手に行くのよね。気持ちの悪い。ああもう駄目だわ。一緒にいるだけでどうにかなりそう」
声音を落とした女性の声と同時に、かたり、と開き戸が鳴る。
エンジュには立ち去る時間も、どこかに隠れる時間もなかった。
するり、と部屋から現れたのは彼の予想通りの人物で、派手に着飾った主の母親。
「あら。お前はイチルが連れてきた――。ふん、本当に何を考えているか分からない息子だわ」
クロユリは廊下に佇む彼を冷たく見下ろすと、開いた扇でひらひらと夜の宙を仰ぎながら消えていった。
とてもじゃないが、主がいるであろう部屋の中を覗く勇気は出なかった。
それから間もなくして、そのとき話にあった北方への視察で第二王子が行方不明になったと聞いた。
主の様子がそれで変わったのかどうかも分からないほど、当時の彼らには主と共に過ごす時間も、心の余裕もなかった。
あのとき。
どんな姿の主だろうとちゃんと目に収めておけば。拙くとも、たとえ嫌悪されようとも何か声を掛けていれば。
主は何か変わっていたのだろうか、とエンジュは思う。
それはカリンもリンドウも、イチルも知らない、彼の胸中にだけ根付いた後悔の念だった。
*****
「リンドウ。今度の戦、どう思う」
過去から意識を戻したエンジュは、新しい一杯を準備していたリンドウに低く問うた。
「むずかしーことは分かりませんけど。イチル様がどうしたいのかは、なんとなく」
小気味いい音を鳴らして瓶の栓を抜いたリンドウは、酒と杯から目を逸らさずに言う。
口の端を上げながら愛用の杯にとくとくと酒を注ぐ彼の様子は相変わらずで、その一種の強さをエンジュは羨ましいとさえ思った。
「エンジュ兄さんこそ。俺とは違って、国にも愛着あるんじゃないっすか」
「イチル様への忠誠には代えられぬ」
どこか意を決したようなエンジュの言葉。
リンドウは自分の杯を満たした後で顔を上げる。
そして珍しく神妙な面持ちをつくると、エンジュを気遣うように、中身が減った一升瓶を小さく持ち上げた。
「……兄さんも一杯飲みます?」
「……勤務中だ」
「どこまでも真面目っすねー」
口が変わっても根の部分はいつも通りらしい。
兄貴分の予想通りの反応に、リンドウはへらっと顔を崩し、笑った。
お読み頂きありがとうございます。
本日中にもう一話分、上げさせて下さいませ。




