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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第四章 錫ノ国編
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第百六十五話 罪の意識

 活火山に別荘地ができる理由とくれば、決まっている。温泉だ。

 この湖畔を望む丘陵地帯は錫ノ国における高級別荘地にして、源泉数も多い温泉地。


 深夜、皆が湯に入り一日を終えた後だった。

 アザミは一人、音も立てずに薄暗い廊下を歩いていた。


 離れの野天風呂に続く板張りの回廊を下っていくと、ほのかな明かりに照らされて白い湯気が立ち上っているのが見えた。脱衣場と風呂に天井はないが一面に板囲いがされており、空へと上る湯気はほどなくして夜の帳に溶けていく。

 脱衣場の前に着いたアザミはぎいっと戸を押し開けた。


 ここに来る前は皆が寝静まったのを確認するのも憚られたのだが、多少睨まれてもそうしておけばよかったと彼は後悔した。人に会わないようにこの時間を選んだつもりだったが、主たちと時間帯を避ける人物がもう一人いたことを失念していた。


 アザミに背を向けていた人物が頭だけを動かし、ちらりと彼を見る。

 普段は一つに括られ風にたなびいている長髪は今は下ろされ、腰上まですらりと流れていた。

 濡れた黒が青年に纏わせるのは、滴るような大人の色香。

 彼の研いだような鋭い目が、アザミを射抜く。


「……失礼しました」


「いや。出るところだ」


 小さく呟いたアザミにシンはそれだけ言うと、再び顔の向きを戻し、濡れた長髪を両腕でまとめ上げる。

 夜のような黒髪がするりと持ち上がり、隠れていた細い背とうなじがあらわになる。


 衣を纏わない剥き出しになった青年の肌には、多くの傷跡が残されていた。

 古いものもあったが、比較的新しい――おそらく一年に満たないものもある。

 彼ほどの手練れが傷を負うことなどほとんどないだろう。

 花ノ国で付いたものだろうな、とアザミはいくつかの大きな斬り傷を見ていた。



 いつものように髪を一つに結んだシンはしゅるりと黒衣を纏うと、荷を持って振り返る。

 脱衣場を出ようとすれば、入口で立ち尽くしているアザミと自然に目が合う。


「あの……すみませんでした」


「何がだ」


「花ノ国でぼく、シンさんに色々したと思うので」


 か細い声だが、静かな夜にはよく響いた。


「今の状態のお前に何か言うつもりもないが。……ただ」


 シンはすっと目線を下げる。袂から出る少年の右腕は右頬同様に暗紫色にくすんでいた。


 ここに来てから、アザミはほとんど右手を使っていない。

 短剣も右の腰に下げているところを見ると、後遺症でまともに動かせないのだろうとシンは見ていた。神経毒によるものか刺し傷によるものか。何があったのかは知らないし聞くつもりもないが、宮殿時代からの付き合いとして何も感じないかというと、また別だった。


「私が初めてアカネ様にお会いしたのは十六のとき。お前はまだ十四だろう、アザミ」


 「それだけだ」と、そう言ってシンは脱衣場を出ていった。



 物心ついたときから仕えていた国王陛下――先王は死んだ。冷徹な父であったキダチも戦死し、菊葉紋ももはやないようなもの。今のアザミはあの陣営の唯一の生き残りも同然だった。


 これまでの人生の全てを彼らに費やしてきたアザミだったが、長かった彼らとの希薄な関係よりも、短くも彼女らと一緒にいた時間の方が特別だった。

 シンの慰めを真に受けて未来に何かを期待しても、それを自ら捨てた事実は変わらない。


 ただ単純に、泣きたい気分だった。





 アザミが野天風呂から上がり回廊を帰っていると、偶然――ハツメに会った。

 小さな木桶を抱える彼女は、日が変わる前に既に湯浴みを済ませているはずだ。おそらく湯の入り直しで、ここで会ったのは本当に偶然なのだろう。


 少年の口から、自然と彼女の名が出た。


「ハツメお姉ちゃん」


「なに?」


「……ハツメお姉ちゃんは口きいてくれるんですね」


 自分から声をかけておきながら、なんとも卑屈な発言だとアザミは思う。


 彼は反乱軍に来てから一層、自分の存在が居た堪れないものに感じていた。冷たい視線を向けられるのはざらだし、まだ楽なのだ。アザミが消えたいと思った最たるものが、アサヒの彼に対する扱いだった。感情も関心も何もない。トウヤとは目が合うことはあったが、アサヒからだけは一瞬たりとも視線を感じないのだ。


 温かくして欲しいなどとは当然思わない。ただその冷たいでもない無関心こそが、逆に存在を許されているように感じられて、心がぎしぎしと軋むのだ。


「勘違いしないで。許すつもりなんてないから」


 淡々と言い放たれた彼女の言葉だが、その冷たい言葉が今の少年の心を楽にした。

 許されない存在だと悲劇に浸るのは、楽だから。


「あの……ごめんなさい」


「なにが?」


「えっと、ハツメお姉ちゃんの嫌がることをして、危ない目に合わせたこと」


 これを言うことがアザミがミヅハに付いてきた一番の目的だった。

 謝罪の気持ちに嘘はない。だが受け入れてもらえるとも思っておらず、心の奥ではこれを言って楽になるのは自分しかいないとも分かっていた。


「……アザミ」


 彼と視線を交わしたまま、ハツメはゆっくりと口を開く。

 それは静かな凪いだ口調で。


「あのときカリンって人から守ってくれてありがとう。あと、あなたのお父さんからかばってくれたことと、神宝(かんだから)を返してくれたことも。……ありがとう」


 アザミの目が大きく揺れる。

 何の仕打ちだ。礼など言われるくらいなら、アサヒのように空気として扱われる方がまだましだと、彼は思う。

 卑屈になることで守っていた心が、乱される。


「あの、ぼくは」


 アザミの言葉を遮るように、ぱんっと張りのいい音が響いた。


 彼の両頬にはハツメの手の平がぎゅっとくっ付いている。

 小さなアザミの顔を強く挟んだハツメは、彼の目を見据えて言う。


「許すつもりはないから。ただ私からすれば助かったこともあったから、そこだけはお礼を言いたかったの」


 アザミの黒目がちの瞳には。

 きゅっと眉をよせ、目を潤ませたハツメの顔が映っていた。


 ――どうしてそんな言葉が出るのか。

 そんな苦しそうな顔で、その『お礼』を言うために、彼女はどれだけ悩んだのだろう。


 じんじんと痛む頬以上に、胸が苦しい。

 良心とはまた違う、本来の心がさらけ出され、罪の意識に押し潰されそうになる。失ったものにただ後悔する。


「……ごめんなさい。ごめんなさい。ハツメお姉ちゃん」


 ハツメの両の手の平に挟まれたまま。アザミは泣いた。

 彼の大きく丸い瞳からは、そのぶん大きな涙の粒がとめどなく零れていた。

お読み頂きありがとうございます。

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