第百六十三話 想いは国境を超え
反乱軍が声明を出して間もなく、大陸の中心に位置する花ノ国の都アオイにて。
百日紅が咲き乱れる初夏の御苑では、鈴の音のようにころころと笑う少女がいた。
「アサヒのやつ、ついにやりおったのう!」
上機嫌な声を響かせるのは齢十一を過ぎたばかりの女皇、レイラン。
執務室の豪奢な椅子に腰掛ける彼女は左右で結んだ長髪を揺らし、横に立つ従者を見上げる。
「さすがはわらわたちが見込んだ者らじゃ」
「一年前はこんなこと、やりそうには見えなかったがな」
友人の旗揚げに目を輝かせる妹に、ヒメユキは柔らかに返した。
二人の前には全身を黒衣に包んだ男が膝を付いている。
ヒメユキが軽く目配せすると、男は一礼して後ろに下がる。
「ハツメも元気そうでなによりじゃ」
報告を終えて去っていく『猫』の一人を見送りながら、少女はにんまりと口の端を上げた。
「しかしハツメには悪いが、こうなるとアサヒを婿にできなかったのは悔やまれるのう。いや、むしろ唾を付けるべきは第三王子の方かの?」
「……お言葉だけど、レイランくんとミヅハくんは合わないと思うよ。絶対」
レイランが声の方をちらりと見やれば、執務用の机に向かうキキョウが顔を上げていた。
威勢の欠片も感じられない疲れたような声は、彼の雰囲気を実際の年齢以上に見せる。
自身の白髪をくしゃくしゃとかきながら、キキョウは気怠そうに息を吐く。
「ミヅハくんも書簡をくれるのは良いんだけど、なんでレイランくん宛てまで寄こすのかなあ」
海ノ都での戦から逃げ、花ノ国に戻る形になったキキョウだったが、最近まではそれなりにゆっくり過ごせていた。用事があったとしても時々目の前の教え子兄妹に呼びだされるくらいで済んでいたのだが、ミヅハの書簡を届けたあたりからどうもやること、というよりはやらざるを得ないことが増えていた。
「なにをぶつぶつ言っておる。教え子たちの頑張りを見届けるのがそなたの仕事じゃ!」
見届けるどころか実務をさせられているのだが。そろそろ一言言ってもいいかと口を開いたキキョウだったが、レイランはそれを遮るように声を張る。
「まずは書簡を書くぞ! アサヒのところにと、山ノ国にじゃ! それとキキョウ、そなたのせがれに声を掛けるからの」
レイランが言った『せがれ』の言葉に、キキョウの頬がひくりと動いた。
そんなことはお構いなしに、「久しぶりに忙しくなるのう」とレイランは可愛らしく花を振りまく。
「小生は政治の世界から身を引いたって、どうして誰も分かってくれないんだろう」
キキョウはそう言って溜息を吐いたが、彼の健気な訴えは少女の若さの前に掻き消されたようだった。
ただ、耳がいいヒメユキにはその小さな悲鳴は届いたようだ。彼の方は気の毒そうにキキョウを見たが、その後は楽しげな様子の妹に視線を移しただけで、特に何も言わなかった。
それから数日後。
山ノ国では神官舎の縁側に腰掛ける青年の姿があった。
便宜上の白袴を履いた脚を外に投げ出し、ゆったりと寛ぐのはヒザクラ。現在の神伯代行だ。
庭先の沈丁花を見つめながら、彼は自国とは犬猿の仲である錫ノ国の現状について考えていた。
今の錫ノ国は一言で言えば脆い。
大陸統一のために他国に攻め入っているときは国民感情も良かったはずだ。
それだけ、第一王子は内政に関する優秀さをもっていた。
その安定した状態が崩れ、国民が混乱したきっかけは先王との仲違い。あれが決定的だった。
先の古城であったという戦はそれぞれが軍を私的に使ったようなもので、国民にもたらされる利は最初からなかった。
まして、情報が足りないと民は邪推するものだ。
二頭の仲違いの理由は、第一王子がいち早く玉座に着くことを望んだ凶行とも、一人の女性をめぐった争いとも噂されていた。
山ノ国の諜報の耳に入るくらいだから、国内では相当広まっているに違いない。
ヒザクラからすれば一人の女性をめぐって国が傾くなど、何という題名の物語だ、と突っ込みを入れたくなるのだが、アサヒの母親や神宝の話を聞いている分、あながち間違いでもなさそうだから怖いものだ。
「なんにせよ、あいつは深い所まで関わってるんだろうな」
毎年神官舎の沈丁花が咲くのを楽しみしていた友人だったが、この春はとうとう見ることが出来なかった。
清廉な白の花弁は散り、今は既に来年に向けて緑の芽を付けている。
今頃彼は古城戦に現れたという反乱軍と共にいるのだろう。おそらくだが、反乱軍の将はアサヒだ。
武王と呼ばれた先王は死に、第一王子とアサヒの戦いとなれば。
山ノ国にとって都合がいいのはアサヒ側、すなわち反乱軍の勝利。
図ったわけではないが、彼を送り出す際に「アサヒたちの目的は山ノ国にも無関係じゃない」と言った言葉が現実のものになりつつあった。
「舎長。……じゃなくて、ヒザクラ先輩」
「花ノ国から書簡がきてますよ」
絶妙な間合いで響くお揃いの声にヒザクラが廊下の方を見れば、ユキコとフユコが彼を見下ろしていた。
白衣に赤い袴を身に付けた彼女たちは左右対称のように頭の横に髪を括っている。
「内容、なんだと思う?」
「反乱軍のことなんじゃないですか?」
「さすがハツメよね。戦い方を指南した甲斐があったわ」
「ねー」と仲良さげに笑い合う顔は、得意げな様子までそっくりだった。
初夏の心地良い日差しが庭先と彼らに降り注ぐ。
ヒザクラは一度庭先の向こう、遠くの空に視線を移した。
高々と続く峰の向こうに想いを馳せた彼は優しく目を細めると、改めて双子を見やる。
「なぁ。そろそろ俺、白袴脱いでもいいと思わねぇか」
そう言って彼がにやりと口角を上げると、二人は目を丸くする。驚いてはいるが、その目には少し期待の色を含んでいて。
「「それって」」
「今度は代行でもなく。ちゃんとした神伯様、迎えに行こうじゃねぇか」
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