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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第四章 錫ノ国編
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第百五十九話 雨天の拾い者

 シンの帰りを待っていたのはアサヒたちだけではなかった。

 やはり反乱軍がそうなのだが、全員が待ち焦がれていたというよりは。


「ではアサヒ様はカナトと私の故郷までお行きになったのですか」


「ああ。シンの姪がマコといってな、一緒に遊んできた。母親もマコも、シンに会いたがっていたぞ」


「そうでしたか……」


 反乱軍の本拠地であるカナトの別荘の一室にて、アサヒとシンが会話をする。


 椅子に腰掛けるアサヒの近くには、別々の本をめくるハツメとトウヤの姿。カナトに対する印象から武芸に関する本ばかりかと思っていたアサヒだが、意外と幅広い分野の内容が揃っていた。とはいっても彼の一番の愛読書は武人の伝記物のようで、期待を裏切らない彼にどこかで安心したのも事実だ。



 離れていた間の互いについて話していると、アサヒたちとシンが一度擦れ違っていたことが明らかになった。


 花ノ国で大河に飛び込んだシンは、海ノ国の小さな村のはずれに流れ着いたらしい。そこで運良く拾われたは良いものの、重傷が癒えるまでの長い間、起き上がることができなかった。

 ようやく身体が動くようになった頃には冬が終わろうとしていて、そのとき耳に入ったのが錫ノ国と海ノ国の戦の話だったという。

 急ぎ彼は大河に張られた野営地を抜け海ノ都まで行ったが、既に戦は終わった後。

 アサヒたちが逃げたことは錫ノ国の軍内では割と騒ぎになっていたようで、主たちの無事に少しばかり安堵を覚えつつも、ずっと追い掛けてきたということだった。



「いつか帰郷してみたらどうだ、シン。そうできるように頑張るのは俺なんだけどな」


「私のことなど――」


 お気になさらないで下さいませ、とシンが続けようとしたときだった。


「おい、アサヒ! ……様……?」


 勢いよく部屋に入ってきたのはカナト。彼は一つに結んだ短めの髪束を尻尾のように揺らしながら、少し首を傾ける。


 古城戦の後は特にカナトが忙しくしていて、アサヒとシンが同席するところに彼が話しかけてきたのは初めてだった。

 困惑する彼の顔には、アサヒに対してどういう態度で接したらいいだろう、という彼なりの疑問がありありと現れていた。

 その自問自答は二回目だが、立場が立場だけに周りの人間も彼の気持ちは理解できる。


 将ということを抜きにしても、自分の尊敬しているシンが様呼びしている。

 しかし、アサヒとは盃を交わし合った義兄弟で――


 ぐるぐると思考を巡らせるカナトを見ていたアサヒが、実ににこやかに口を開いた。


「どうしたカナト。今まで通り気安く接してくれ。なんなら、最初の頃のように軟弱な奴だの、男らしくないだの言ってもらっても構わない」


 その一言で、部屋に冷やりとした空気が流れる。

 本から顔を上げていたハツメがカナトを見れば、彼は焦ったように口をぱくぱくと動かしていた。


「カナト」


 静かに彼の名を呼んだのは、シンだった。


「反乱軍のことといい、一度ゆっくりと話さなければいけないと思っていた」


「はい……シン様」


 カナトが改めて姿勢を正すと、シンはアサヒの方を一度見やる。


「アサヒ様。少し離れます」


「ああ」


 部屋の外に消えていく二人を見送った後、アサヒはぴしゃりと閉められた戸を眺めたまま呟いた。


「少し悪ふざけが過ぎたか」


「いいや。あれはシンに構ってもらってまんざらでもない顔だ。後で礼がくるかもしれぬぞ」


 本を棚に戻しながらトウヤがにやりと笑えば、会話を聞いていたハツメも楽しげに微笑む。


「なんだか面白い人よね、二人の兄貴分」


「兄貴分?」


 アサヒが心外だという表情で聞き返すと、ハツメはあれ、という風に黒髪を揺らす。


「三人の中で一番年上なんでしょう? 義兄弟なら、お兄さんじゃないの?」


「……そこまで考えてなかったな」


 アサヒは座っていた椅子に体重を預けながら、前髪をかき上げた。


 あいにく外は雨天。だが明日でも晴れたなら、カナトやシンも交えて皆で手合わせするのもいいな、と彼は頭の隅で考えるのだった。





 同刻。同じくカラミの古城から場所を離れた、そう大きくない町でのことだった。


 雨粒が地面を強く叩く中、細い路地の死角に座り込む、小さな影が一つ。


 ひゅー、ひゅーと細くなった喉に空気を通すのは、全身を血と泥で汚した少年。


 人目につかないところまで逃げてきたはいいものの、逃げる意味などあったのか、と彼は自嘲的に笑おうとする。だが唇はうまく動かなかった。


 衰弱しきったアザミの右頬は紫色に醜く変色している。自身の得物である小刀の、神経毒によるものだ。


 無気力に壁にもたれる少年が右下に目線を落とすと、彼の右手首には深々とした刺し傷がいくつも付けられていた。水溜まりへ血を垂らし続けるその傷口からは、紫の変色が腕、肩、そして顔と広がっている。麻痺の症状も同様で、彼の頬まで。彼から小刀を奪ったリンドウによるものだった。


 隠し持ってはいるのだ、解毒剤は。

 何かあった用に常に準備しておいたものだが、自分に使う気力はなかった。これから生きていく理由を探すよりも、ここで自身の毒で朽ち果てる方が楽だろう。もはや回らなくなった頭で、彼は呆けたように考えていた。


 ふいに、彼の視界の隅で波紋が広がる。

 水溜まりが数層の円をつくると、彼の頭をしきりに濡らしていた雨がすっと途絶えた。


「まったく、三剣将の一人がこんなところで何やってるのさ。まるで親に捨てられた子どもだね。……まあ大方間違いじゃないか」


「……ミヅハ王子」


 アザミが力なく顔を上げると、先王によく似た面差しの美麗な少年が彼を見下ろしていた。彼とアザミを入れた傘の下にはもう一人、痛々しげにアザミを見るルリの姿。


「父も死んで、イチルの元にも戻れないんだろ? 自分で考えずにただ命令だけを聞いているから、こういうことになるのさ」


「……ぼくがどうなったって、ミヅハ様には関係ないでしょう」


 痺れる唇で小さく呟いたアザミに、ミヅハは刺々しい視線を送る。


「そうだね。僕の人生にはお前がのたれ死のうが関係ない。……でもね、僕はお前みたいな奴がいるだけで苛々するのさ」


 形は違えど、かつてのミヅハも母親のために人生が潰れる可能性をはらんでいた。

 彼が自分で考えることを始めなければ、今でも彼は母親の愛玩人形だった。


 ミヅハの意図が読めず、アザミはただぼんやりと彼を見上げる。

 その様子を見て、ルリが助け船を出した。


「ミヅハ様。正直に放っておけないって言えば良いじゃないですか」


「ちょっとルリ! 僕そこまで優しくないんだけど! ……それで、お前にはもうやりたいことはないの?」


 傘を支えるルリに唇を尖らせつつも、ミヅハは改めてアザミを見下ろす。

 不思議と表情や口調に険は感じられなかった。


「できるなら……ハツメお姉ちゃんに謝りたい」


 思考が回らない中で、自然に出た言葉だった。そんな言葉が出たことに、アザミ自身もどこかで驚いていた。


 彼の小さいようで大きな望みに、ミヅハはふ、と口の端を上げる。


「いいじゃないか。僕たちもこれからあいつらに会いに行くけど、お前が一緒に来れば叶えてやるよ」


「ミヅハ王子に付き従えば良いんですか?」


「まあそうだけど、そうじゃなくて……。お前の力を僕のために使ってくれたら、僕がお前の願いを叶えてやる。それでも何がしたいか、何をするかは全部自分で考えろ。僕は自分で考えて動かない奴は嫌いなんだ」


 ただ従うんじゃなくて自分を持てと、ミヅハは言う。


「まずは僕と来いよ、アザミ。悪くしないと約束するよ」


 次第に雨音が優しくなる。ミヅハの背後では、雲の切れ間から日が差そうとしていた。


「……分かりました、ご一緒します」


「うん、いいね。じゃあ駒も揃ったし、お前の解毒を済ませたらすぐに行くよ。――あの馬鹿兄貴のところにさ」

お読み頂きありがとうございます。

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