第百五十五話 アカネ
アカネが安置された漆黒の円塔、その螺旋階段の最下段にあたる小さな空間にて。
自身の行く手を阻むように立つ黒衣の青年を見て、コウエンは口を開く。
「そうか。お前はアカネの――」
「この先ではアカネ様とアサヒ様がご対面なさっているのだ。誰とて通さない」
鋭利な雰囲気をさらに研ぎ澄ましてシンが言えば、コウエンは不快気に顎を上げた。
「たかが従者が余に向かって随分な態度だ。……それにしても、余の妻と息子のはずだが。その親子の対面に余も入れようとは思わぬのか」
「思わないな。息子などよくその口が言える。お前がアサヒ様のことを肉親として気に掛けたことがあったか」
それに、とシンは続ける。
「アカネ様を妻と言うならば。なぜアカネ様の幸せを考えることができない。私の知る限り、アカネ様がお前を想ったことなど一度もない。お前の話をして笑ったことなど一度もない。お前が何をしようが、アカネ様はお前のことを少しも見てはいなかった」
シンはアカネの生前、コウエンが会いに来る前の彼女の様子を思い出していた。普段は絶えない温かな笑顔に影が差す瞬間を、何度歯がゆい思いで見ただろうか。
「たとえアカネ様が生き返ったとしても。生前同様、アカネ様の御心がお前のものになるなどあり得ない」
自分の話を聞いたまま表情を動かさないコウエンに、彼ははっきりと告げた。
広くない塔内に、暗い淵から湧いたような低く冷たい声が響く。
「……余程死にたいらしい」
怒りに染まったコウエンは腰に差していた剣を抜いた。
一線から身を引いた者とは思えないほど、流れるような、強者の動作。
対するシンも剣を抜く。
真っ直ぐに前を見据えながら、彼は自身の主に想いを馳せる。
――ようやく。ようやく眼前の男からアカネ様をお守りできる。
なぜアカネの生前にできなかったのか、己の無力さをシンは一生呪うに違いない。
しかし彼は分かっていた。
今この忠義を果たせることすら、彼女の形見であるアサヒのお陰なのだと。
母と子、二人の主の為に。
「従者の誇りにかけて、ここだけは守り通す」
それはシンの積年の想いが込められた、静かな咆哮だった。
―――――
螺旋階段を登りきったアサヒの目の前には、一枚の扉。
その木製の開き戸に手を伸ばせば、周囲に青い光の残渣が舞っていることに気付く。錠でも掛かっていたのだろう。天比礼を使ったのだな、とアサヒは思った。
神宝を扱えるのはこの世で彼女一人。そしてその性質とは関係なく、アサヒにとっても唯一の存在。
彼は勢いよく扉を開け放つと、彼女の名を呼んだ。
「ハツメ……!」
アサヒの声に、部屋の真ん中に佇んでいた少女が振り向く。
入口に背を向けていた彼女は豊かな黒髪をなびかせながら、アサヒを見る。珠のような瞳を潤ませ、彼女は唇を開いた。
「アサヒ」
互いの身体が自然にひかれ合う。
アサヒが前に右手を伸ばすと、鏡のようにハツメも手を伸ばす。
優しく手を重ね合わせた二人の距離はなおも縮み、互いの身体が触れ合おうというとき。
アサヒは彼女を強く抱き締めた。
「無事で良かった――」
「私も。アサヒが無事で良かった。来てくれて、良かった」
二人は相手の声で、熱で、互いの無事を確認する。
アサヒは自身の胸に収まった小さな頭を優しく撫でる。
慈しむようにその柔らかい髪を一度梳くと、彼の胸に頭を付けていたハツメは顔を上げた。
「アサヒ。アサヒのお母さんがそこにいるの」
ハツメはアサヒを真っ直ぐに見つめる。今にでも泣きだしそうな顔で、彼女は言った。
「アサヒが楽にしてあげて」
ハツメのその言葉に、アサヒはハツメの後ろの寝台を見た。
部屋の中心に置かれた銀製の寝台。窓から射す淡い光を受けながら、そこに静かに横たわっている自身の母親を見て――彼は全てのことが腑に落ちた。
ああ――そうだ。
よく考えたら、『異能の力』なんて。
「神宝以外あり得ないよな」
アサヒの視線の先には彼の生みの親であるアカネの姿。
赤の着物を着せられ、美しい黒髪を銀台に流した彼女の身体の一部は、生きた人間でもあり得ない、柔らかな光を発していた。
アサヒとハツメはどちらともなく離れると、二人並んでアカネの前に立つ。
生気を失った母親の綺麗な顔を見て、アサヒは悼む思いで顔を歪ませた。
「母上はずっと自分の中に宿していたのか……天鏡を」
母親の異能の力は、彼女の体内で秘めやかに息づいていた天鏡によるものだった。そしてその力は彼女の胎内から生まれた自分にも、確かに移っていたのだ。
「……なんて四神は残酷なんだろう」
小さく呟かれたアサヒの言葉にハツメは口を引き結ぶ。そうしてゆっくりと頷くと、彼に優しく声を掛けた。
「取り出しましょう。……少し苦しそうに見えるの」
「……わかった」
アサヒが寝台の前に膝を付くと、ハツメもそれにならい、彼に寄り添う。
柔らかな光が洩れるのは、アカネの心臓の位置。
アサヒは一度母親の顔を見た後、その場所に静かに両腕を伸ばした。
彼女の胸に両手を着けると、思い描いていた感触はなく、その手はそのまま体内へと飲み込まれる。表面でつかえないことに戸惑いつつも、どこかで合点する。
空気に透ける感覚ではない。
彼の世界で例えるならば、それは渓谷の底を下る清流か、あるいは間を吹く爽風か。
アサヒがその穏やかで澄んだ流れに心を任せていると、ふと硬いものにあたった。
両手で包みこめば、それはアサヒの手の平ほどの大きさで、厚さもまた彼の手の平ほどの、円。
彼はその円をしっかりと握ると、腕を引き抜いた。
アサヒとハツメ、二人の目の前に現れたのは赤く円い枠にはまった一枚の鏡。
一点の汚れもないそれは、探していた最後の神宝。
天鏡だった。
アサヒは天鏡を丁寧に引き寄せる。
そのままハツメと向き合えば、ハツメもゆっくりとその鏡に手を伸ばした。
共に天鏡を持ち、何かに導かれるように掲げれば。
天鏡から光が溢れた。
部屋に満ちた柔らかい光は、窓や入口から外界に洩れるようにしてふわりと広がる。
いつのまにか周囲には赤い炎が煌めいていた。不思議と熱くはなく、ただそこに揺らめくばかり。
二人は再び腕を下げ、天鏡を覗きこむ。
視えたのは戦の風景。多くの人間の害意、殺意。
その凄惨な光景にアサヒから鏡を伏せた。
柔らかな光は次第に収まり、赤い炎は残渣を残すようにして消えていく。
アサヒが眼前のハツメを見ると、彼女は哀しげに目を伏せ、声を発さずに泣いていた。
天鏡の力は、邪を見通す力。人の悪意を詳らかに視せる力だった。
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