第百五十四話 古城戦 六
漆黒の塔へと続く一本の廊下を二人は走る。
「ハツメに会ったのか」
「はい。謁見室の前で交戦するところに遭遇しまして。ハツメ様ご自身がアカネ様の元へ行くところだったので、一度外に出て、屋根伝いにこの先の塔へと向かいました」
アサヒの質問にシンはうやうやしく、滑らかに言葉を紡ぐ。
「塔には案の定あの男……コウエンがいましたが、戦場で何かを見つけるなり謁見室へと戻ったのです。そのお陰で何事もなくハツメ様を塔の内部にお送りすることができたのですが……コウエンはあのとき、アサヒ様を見つけたのですね」
「間に合ってよかったです」とシンは軽く息を漏らした。
シンはアサヒが戦場に来ることを予想していたらしく、ハツメを送った後はすぐに主を探しに行ったのだった。
アサヒは先ほどのコウエンとのやり取りを思い返す。
自分の母親の死を受け入れられず、死後も寄り縋る底のない執着心。母親の生前の様子が垣間見えた気がした。
「シンは今まで、あいつから母上を守っていたんだな」
「いえ。いつも完全にお守りすることはできず、憤る思いでした。――これまでは」
シンが静かに目を伏せる。
「アサヒ様。これは私の我が儘でしかないのですが、先に登っていては下さらないでしょうか。……ご心配せずとも、すぐに合流します」
ちょうど二人が漆黒の塔へと入ったところだった。天から自然光が注ぐ筒状の塔の最下部、螺旋階段に続く手前の辺りで、シンは言う。
「私は少し、私用がございますので」
「……分かった」
アサヒはこくりと頷くと、漆黒の階段を駆け足で上がっていく。
螺旋階段を登り切り、最上階の部屋へと入ったアサヒを見届けると、シンがゆっくりと振り返った。
「思えば口をきいたことすらなかったな」
そう話す青年の視線の先には、今まさに塔の内部へと足を踏み入れた一人の男。アカネを欲し、二十年以上に渡って彼女を縛り続けた、コウエンの姿があった。
城内に入ったカリンが謁見室に駆け付けたとき、部屋の中にはイチルしかいなかった。
「イチル様……!」
焦った彼女は主の元へ走り寄る。
窓硝子が割れた室内。粉々になった乳白色の破片が淡く輝く赤絨毯の上に、イチルは一人、両膝を付き項垂れていた。
触れれば壊れてしまいそうな儚さに、カリンは一瞬声を掛けることを躊躇した。
だがそれでもと、彼女は膝を付く。顔を引き締め、主に申し出る。
「イチル様。私にご命じ下さいませ。イチル様が親殺しの業を背負わずとも、私がおります」
「……カリンちゃんは優しいね」
顔は下に向いたまま、イチルは静かに口を開く。
「大丈夫だよ。少し思い知っただけ。ずっと前から分かっていたことなのに、可笑しいね」
***
アサヒとシンが謁見室の奥、アカネのいる塔へと消えた後。
「こうも人が多いと面倒だな」
コウエンが忌々しげに吐き捨てた。頬にかかった横髪を掻きあげながら、彼は自分の長子を見やる。
「イチル。人を使って叛旗は翻せても、お前に余を直接殺せるような気概はないだろう。お前は弱いからな」
アサヒが奥へ消えていくのを呆然と見ていたイチルは、そのままの表情を父親に向ける。
普段の笑みを失い心の覆いが取り払われた彼に、コウエンは話を続ける。
「クロユリの望み通り綺麗に消えてやる。元から、さっさとお前にこの国を継がせるつもりだった」
そう言うと、わずかに口の端を上げた。コウエンのその笑いは、どこか皮肉の色が混じっていて。
「余ほどお前を必要としている人間はおらぬのだ。お前は可哀想なくらいに聡く、弱い。優しすぎるがゆえに、他人の無声の求めですら無下にはできぬ。だから欲しいものが手に入らぬのだ」
「父様……」
「こんな余でも父と呼んでくれるなら。どうか父のために黙ってこの国の人柱になってくれぬか。……悪いが、谷の娘とヒダカは余がもらう。許せ、余の可愛い息子よ」
そこまで話すと、コウエンはアカネのいる塔へと歩み出す。
人形の糸が切れたように、その場に両膝を付くイチル。
そんな息子の様子など全く気にならないのだろう。コウエンは、背後のイチルを一度も振り返ることなく、謁見室から消えていった。
***
項垂れていたイチルがゆっくりと顔を上げた。
「大丈夫、私は最初から解っていたから」
どこともわからない場所を見て話すイチルの顔を、カリンは心配そうに覗く。
悲観するような口調とは裏腹に、イチルは静かに微笑んでいた。焦茶色の瞳に光を灯らせた彼は、その花のような唇を開く。
「でもヒダカだけは。ヒダカにはこれ以上触れさせない。ヒダカを守るためなら、私は親だろうと殺すよ」
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