第百五十三話 古城戦 五
瞳の白炎がふっと消える。
アサヒがゆっくりと扉の方へ目を動かせば、鮮明になった視界に映るのは金色の髪をもつ美しい男。
「会いたかったよ、ヒダカ。――でも」
最初こそ嬉しそうに笑ったイチルだったが、すぐにその表情が曇る。
「どうして……どうしてヒダカは父様の隣にいるのかな」
イチルは左手で胸を押さえながらアサヒとコウエンに歩み寄る。
アサヒは立ち尽くしたまま。そしてコウエンはというと、アサヒの双眸に片手を伸ばしたままの状態で、顔だけをイチルへと向けていた。
「でも大丈夫だよね。ヒダカは私を見てくれるよね。ヒダカは、ヒダカだけは私を必要としてくれるよね。必要としてくれなきゃ、嫌だよ、ヒダカ」
熱に浮かされたように言葉を紡ぐ異母兄の姿に、アサヒは口を開く。
「……育ちが良いってああいうことか?」
それを聞いたコウエンが腕を下ろし、気怠そうに長い息を吐いた。
「イチル。黙って執務だけこなしておればいいものを。クロユリに何か唆されたか」
「今はそんなことどうでもいいでしょう。ヒダカがいるのだから」
父親の方を見ずにイチルは答えた。彼はこれまで離れていた時間を取り戻すかのように、アサヒから視線を外さずに声を掛ける。
「ねえヒダカ。シャラに行ったんだよね。どうだった? 当時、私はヒダカに尊敬されたい一心であの地の内乱を平定したんだよ」
高揚した気持ちは隠さずに、それでも一歩一歩を丁寧に、イチルはアサヒに近付いていく。
「あの後すぐにヒダカはいなくなってしまったけれど。それでも、死んだと思わされても、ヒダカの兄として相応しい仕事はしてきたつもりだよ。その一番の成果がシャラなんだ。褒めて欲しいな」
表情がころころと変わる。彼は一度甘えるように微笑むと、今度は申し訳なさそうに綺麗な眉を下げた。
「山ノ国でのことはさ、ちょっと焦りすぎたかなって反省してたんだ。確かあのとき私は『罵って、いたぶって、可愛がる』って言ったと思うのだけど。貶されるのとか、痛いのとか、ヒダカは嫌いなんでしょう」
アサヒが言葉を失う中。コウエンが冷めた目で見つめる中。
イチルは一方的に話を続ける。
「たださ。ヒダカはほら、私と違って完璧な存在だから。心に隙がない満たされた人間は求めることもしないでしょう? だから一度綺麗にした方がいいかなって思って。欠けたところは私が埋めるから大丈夫。ヒダカが私だけを求めるように、ヒダカが私だけに縋るように、少しだけ弄らせてよ」
歩く姿は優麗そのもの。光を吸って輝く金色の髪は人を超えた美しさを放つのに、彼の唇から洩れるのは淀んだ執着。
「ヒダカが私以外を頼らなくなったら、私は安心してヒダカを守れる。弟を守るのが兄の役目でしょう? 私はただ、ヒダカとそうありたいだけなんだよ」
「お前は……」
言葉が通じないというよりも。自分の考える世界こそが最上なのだと信じ切っている。
おそらく、そう思わなければ彼は心が保てない。
イチルがアサヒまであと数歩というところまで近付いたときだった。
謁見室の窓硝子が激しく割れた。
硝子が蹴り破られる大きな音が耳をつんざく。
飛び散る破片に三人はそれぞれの腕を上げ、顔を庇った。
自身の腕越しに、アサヒは一つの影を見た。
引き締まった長身、後ろに束ねた髪が細く長く背で揺れる。
日差しを背に受けたその人物が一歩踏み出せば、アサヒの世界にはっきりと、彼の存在が帰ってくる。
にわかには信じ難い、それでも生きていると信じて疑わなかった人物――。
「シン……!」
「遅くなりました。――アサヒ様」
彼の唯一の従者。そして彼が己の目標としずっと目指してきた男が、そこにいた。
懐かしい姿と声にアサヒの胸が熱くなる。
アサヒがこみ上げる涙を我慢していると、シンは変わらない声で「主命は守れましたでしょうか」と話し、アサヒの前に立つ。
イチルとコウエンから主を庇う黒衣の背中は、まさに彼のものだった。
シンは身体の向きはそのままに、目線だけをアサヒに向ける。
「アサヒ様。ハツメ様がこの先の最上階、アカネ様がいらっしゃる部屋でお待ちです。ここは私が食い止めますので、どうかアサヒ様は――」
「駄目だ」
アサヒはシンの目をじっと見据える。
「戦うなら共に戦う。行くなら一緒だ。もう置いてはいかない」
アサヒの瞳には揺るぎない意志が宿っていた。
主の内に燃える情念に、シンは一度目を見張る。
その熱い情念は、かつてのアカネによく似ていた。だがけっして母親譲りなだけではない。これはアサヒ自身がこれまでに灯し重ねて成熟させた、心の炎。
それが分かったシンは、優しげに微笑んだ。
「かしこまりました。共に行きましょう、アサヒ様」
シンがアサヒの正面を向く。彼は自然な動作でアサヒの手を取ると、片膝を付き、その白い手の甲に己の額を近付けた。
「この再会に、今一度忠誠を誓わせて下さいませ」
「俺も。シンに何かを与える主になると、約束する」
「……勿体なきお言葉です」
そう言ってシンは伏せていた顔を上げる。
彼はアサヒと一度視線を交わすと、その手を優しく離して立ち上がった。
「まいりましょう」
「ああ」
そのまま謁見室の奥へと駆け出す主従。
その様子をコウエンはただ無表情で、対してイチルは茫然とした顔で見つめていた。
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