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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第四章 錫ノ国編
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第百四十七話 始まりの夜

錫ノ国回、普段の二話分の文字数ですが切りどころもなく、このままあげさせて下さいませ。

 錫ノ国の都セイヨウの最奥に建てられた宮殿は、壮麗な木造建築を基本とする。

 外装をはじめ随所に伝統の造りを残していながらも、内装には新しい文化も取り入れている。室内に敷かれた絨毯や銀細工の装飾が付いたランプ、薄く透明な窓硝子、柔らかな布張りの椅子など挙げればまさに多種多様だ。

 伝統的な文化と時代の先を行く技術が上品に溶け合う空間は、誰が見ても見事なもの。


 そしてそれは当然のことながら、大将の執務室でも同様だった。


「陛下は気でも触れてるんじゃございませんの!?」


 汚れ一つない赤絨毯を踏みしめるカリンが、目の前の重厚な机を目一杯の力で蹴る。

 頑丈な机は壊れるところまではいかなかったが、上に整理されていた書物はどしゃりと崩れ、その内のいくらかが床に散らばった。


「カリン! 頼むから、滅多なことを大声で言うな」


 カリンとは少し離れた長椅子に腰掛けたエンジュが彼女をたしなめる。

 彼にとっては自分の物に当たられるのは慣れたもので、注意すべきはカリンの不敬の方。

 だがその注意も、今日の彼女には届かないらしい。


「ふん! 事実でしょう。どうすれば死人を生き返らすという発想が出るのかしら」


 カリンは一層目を尖らせると、前に垂らした大きな三つ編みを右手で払いのけた。

 その仕草で、彼女の右手首が繊細な輝きを放つ。


 今のカリンの右手首には、以前はなかった優美な銀細工の腕輪がはめられている。アザミから受けた傷を隠すためのものだが、彼女にとって重要なのは傷を覆ったことではなく、この腕輪を贈られた相手だった。

 麻痺が治った後も、何日経っても部屋から出てこないカリンの様子を受けて、イチルが彼女のために急ぎ特注で作らせ、自ら渡しに行ったのだ。

 二人で何を話したかは知らない。だが次の日から普段通りに姿を現したカリンを見て、エンジュは主に対しここずっと平伏する思いだった。


「なんつーか、陛下がおかしいのは前からですけどね」


 カリンの言葉を受け、エンジュの向かい側の長椅子に身体を預けるリンドウがにやりと笑う。

「いくら美人でも死んだらなー」と軽い調子で呟くリンドウをエンジュが一睨みすると、彼はへらっと表情を崩して目を逸らす。


 手が掛かったのはこの男もそうだった。カリンを部屋から出すためにあれこれ尽くしたのとは逆に、リンドウの場合は部屋に閉じ込めていなければならず、エンジュは四苦八苦した。

 カリンのように物にあたるのがまだ可愛いと思えるほどに、彼の苛々の発散先は関係ない人間に向く。カリンの復活に合わせてひとまず落ち着いたから良かったが、このようなことは金輪際勘弁してほしいとエンジュは心の底から思っていた。


 そう考えると、こうして自国の王に不敬を働けるだけましなのだ。執務室がアザミの領域を中心に凄惨な状態になっても、それの処理に兄貴分のエンジュが追われることになっても、彼にとってはまだ安心に思えた。


「陛下に付いて行った兵などどうでもいいですのよ。元々軍閥でしか動けない小心者など当てにしておりませんもの。それよりも何よりも、イチル様がおいたわしい」


 はあ、と憂うように頬に右手を添えるカリンに、エンジュも口を開く。


「そもそも、谷の娘をもっと早くに始末していたらこんな事態にもならなかったのだがな。……俺も含めての失態だ」


 その冷静な呟きを最後に三人が閉口すると、執務室の扉が優しく開かれた。


「ああ、いたいた」


「イチル様」


 三人が入口を見やれば、普段通りの穏やかな笑みをたたえる主の姿があった。

 座っていたエンジュとリンドウがすぐさま立ち上がる。

 三人が姿勢を正すと、イチルは「気にしなくていいのに」と軽く笑ってから、言葉を続けた。


「母様から呼ばれてさ、付き合ってくれない?」


「かしこまりました」


 首を傾け金色の髪を揺らすイチルに、カリンとエンジュが従順に頭を下げる。


「リンドウくんは良い子でお留守番しててね」


 その言葉の意味を正しく理解したリンドウも可笑しげに目を細めると、「いってらっしゃいませ」とうやうやしく礼をした。





 彼らが最後にクロユリを見たのは、彼女に国王の意図を伝えたときだった。


 ――父様は神宝(かんだから)と谷の娘を使い、第二夫人を生き返らせようとしております。


 そのイチルの一言に、クロユリはただ「そう」とだけ答えていた。人前なのもあったろうが、そのとき沸き立ったに違いない激情を微塵にも見せなかったのは、彼女の王族としての矜持だったのだろうとエンジュは思う。


 ただ、日が過ぎ、久しぶりに現れた今のクロユリは酷く憔悴している様子だった。後ろに自分の世話係を控えさせたまま、不安定さを抱えた美人は色味の失せた唇を開く。


「陛下は……陛下はやっぱり、あの女を生き返らせるおつもりなのね。……やっと死んでくれたのに」


 虚ろな彼女の目は息子であるイチルに向いていた。イチルの背後で壁寄りに控えたエンジュとカリンも見つめる中、彼女はおぼつかない足取りでイチルに近付く。


「陛下はもう私を見て下さらないのね。何をしても……二人になっても。大陸を献上すれば昔の陛下に戻って下さると思っていたのに……もう無理なんだわ」


 こんなときにも癖は出るようで、クロユリの手元では閉じられた扇子があちこちを向く。両手で黒塗りの扇子を弄びながら、彼女は自分より背の高い息子を見上げた。


「戻りたい。アカネが見つかる前に……ああ。ちょうど貴方も生まれる前ね、イチル」


 異能の力をもったアカネが見つかった当時、クロユリはイチルを身籠っている最中だった。アカネが宮殿に入ったときも、クロユリは重いお腹を抱えていた。


「その前までは私と一緒にいてくれたのに」


 どこか恨みがましいクロユリの目、声。彼女は唇を震わせた。


「あの女に縋る陛下などもう見たくありません」


 クロユリの扇子の固く冷たい骨が、ぴしゃりとイチルの頬にあてられる。


「ねえ……殺しなさい、イチル。陛下を……コウエン様を」


 クロユリの後ろから、ひっと短い悲鳴がした。悲鳴の主は彼女の世話係だ。


「もう終わらせてしまえばいいんだわ。これ以上、私のコウエン様が壊れる前に。武王として凛々しくあられたあの輝かしい姿が私の心に残っているうちに」


 ゆっくりと、イチルの美しい頬に沿って、扇子の骨が滑る。


「ねえイチル。貴方がこの国を継いで次代の王になれば、その『国王陛下』という肩書きだけ(・・)は愛せるかもしれませんね」


 イチルの顎まで下ろした扇子をくい、と持ち上げて、クロユリはそう言った。


 エンジュは隣に立っているカリンの肩に片手を置く。

 主とその母親のやり取りを凝視するカリンは、信じられないといった表情で全身を震わせていた。

 エンジュの心中も彼女と同じだった。


 表向きとはいえ、現在の錫ノ国を統べるのはイチルの実の父親、コウエン。その彼を殺すということは、イチルがこの国の叛徒になるということ。そして実の親を手に掛けるということだ。


 周囲の者が驚愕と恐れの眼差しで母子を見る中、イチルの口から紡がれたのはいつもの言葉だった。


「かしこまりました、母様」


 それは普段の彼と変わらないように感じられる声色。


「母様がそう仰るのなら。父様を殺して、母様の憂いを晴らしましょう」


 だがこのやり取りを長く見てきた者には分かる。イチルのその声には、こうなることをどこかで待っていたような、甘ったるい響きがわずかに含まれていた。





 大将の執務室の扉が軽やかに開いた。

 椅子に長い足を組んで座っていたリンドウが立ち上がる。彼は戻ってきた主に口を開きかけたところで、何かを察したようにぴたりと動きを止めた。

 イチル、カリンに続いて入室したエンジュがしっかりと扉を閉める。


 側近の三人が真剣な面持ちで見つめる中、イチルはゆっくりと唇を開いた。


「君たちも思うところはあるだろうけど。どのみち父様は障害にしかならないんだ……殺すよ」


「イチル様」


 なおも気高く品格を崩さない自分たちの主。

 カリンがその名前を口にすると、三人は同時にイチルに(ひざまず)く。


「すべてはイチル様の御心のままに」





 その夜。

 ランプの灯が揺らめく軍議室でイチルが見せるのは、普段と同じ穏やかな笑顔。


 突然の召集だったが、都にいる者は全員集まった。それにもかかわらず空席があるのは、国王と共にカラミの古城へ行った者の分。その内情は全員が知っているのだろう。皆顔色が悪く、会議が始まる前も誰一人として言葉を発しなかった。


「軍議っていっつもこんな暗いんすか?」


「そんなわけないでしょう、馬鹿」


 初めて軍議に出席するリンドウがわざとらしく言うと、隣に座るカリンが呆れたように溜息を吐く。その反応ににやりと笑った彼が全体を見やり、くつくつと喉の奥を鳴らせば、軍議室の空気は余計気味の悪いものに染まる。


 イチルは今日、一人だけ席に着いていない。椅子に左手を掛けている彼が「そろそろいいかな」と、今の雰囲気には不釣り合いな心地良い声を響かせた。


「もう全員が知っていると思うんだけど、父様が軍の一部を連れてカラミの古城に篭ってるんだよね。なんでも、神宝(かんだから)を揃えて第二夫人を生き返らせるんだってさ。……なんだか口にすると笑っちゃうね」


 一人分の乾いた笑いが軍議室を覆う。

 イチルはその美麗な顔でひとしきり笑うと、はあ、と息を漏らした。


「私はね。母様の憂いを終わらせるために、父様を討つことにしたんだ。君たちにはここで、父様と私、どちらに付くか決めて欲しいんだよ」


 カリン、エンジュ、リンドウの三人ががたりと立ち上がる。


「私に付いてくれるなら立って。父に付くならそのまま頭を伏せて。……その方が首を刎ねやすいから」


 イチルのその言葉に、三人が腰の剣へと手を伸ばす。


 軍議室の空気を裂いたのは、鞘をこすれる鋭い音。

 暗く冴えた光を放つのは、離叛の刃。



 この日。


 イチルが実の父親であるコウエンに反旗を翻したことは、瞬く間に国中、そして大陸の各国に知れ渡った。

お読み頂きありがとうございます。

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