第百四十六話 ハツメとアザミ
大陸の南側にあたる錫ノ国にも雨季というものはあるらしい。
ここ数日雨天が続いていたが、今日もまた漆黒の古城を雨粒が覆う。
ハツメの部屋には窓は無かったが、煉瓦を叩く雨音は微かだが彼女の耳に届いていた。
寝台に横になっているハツメがころんと寝返りをうつ。
花器に挿してある黄色い百合はすっかり干からびている。ハツメがアサヒの母親と会った日から、水も花も替えられていない。
アザミと言い合いになって以来、彼はここに来ないのだ。
今ハツメの生活をみているのは菊葉紋の数人のようだが、ハツメと彼らは一切言葉を交わさない。
彼らはアザミの父親と同様、まるでハツメが物であるかのように接する。
例え目が合ったとしても、そこに見えるのは差別的な偏見の目だった。
か細く扉を叩く音が二回、小さな雨音に重ねられる。
ハツメが身体を起こし寝台に腰掛けると、軍服姿のアザミが入ってきた。
落ち着いた足取りの少年の手には花ではなく、硝子製の茶器一式。
無表情の彼は小さな机の上で手慣れたように茶を二杯分作ると、片方をハツメに渡してきた。
ハツメは受け取ってはみたものの、口は付けない。
一方のアザミは寝台の端に座るハツメの隣――ではなく、その下の床に、寝台に背を預けるようにして座った。
彼はすす、と音を立てずに薄紅色の液体を飲むと、ようやく口を開いた。
「第二夫人、どうでしたか? ぼく、実は会ったことなくて」
ハツメではなく前の壁を見つめながらアザミは言う。
長髪を一つに束ねた彼の頭を見下ろしながら、ハツメはいつも通りの調子で答えた。
「アサヒに似ていたわ。親子なんだな、って思った」
あれから数日泣いたことで、ハツメの心も揺るぎないものになった。
今は自分でも驚くほどに落ち着いている。
「それだけですか? 傾国の美妃とか……ああ、でも第二夫人は異能の力もありますもんね」
「……ねえアザミ。アサヒのお母さん……アカネ様って、どうして国王の目に留まったの?」
「ぼくも生まれていない昔の話なので、聞いた話なんですけど」
隠すものでもないのか、彼は淡々とした口調でハツメの問いに答え始める。
「第二夫人の家は元々、階級も紋もない軍人の家だったそうです。第二夫人は生まれたときから異能の力を持っていて、不思議な力ですし、ずっと一家は隠してたんですよね。でもきっかけは知りませんけど、どこかから秘密が漏れて、その話がたまたま陛下の耳に届いたんです。時機も悪くて、初めて陛下に謁見したときに第二夫人に異能の力が発現して……陛下はそれ以来、あの異能の力――炎の眼の虜です」
「その当時の第二夫人は十二歳ですね」と、特に感情をのせることなく彼は言うと、茶をすする。
「アサヒさんに発現したとき。ちらりと眼を見ましたけど、特に何も感じませんでしたね」
「アサヒが力をもってることは国王に言ったの?」
「一応。特に何も言ってませんでしたが」
アザミはそこまで言うと、はあ、と小さく溜息を吐いた。その影を背負った様子は、ケイだったときには想像もつかないものだった。
「することがないとつまらなくて。……早く仕事くれないかな」
十四の子供が仕事をくれとは。それにその仕事の内容と言ったら、けっして明るいものではないだろうに。
「アザミは、他にやりたいこととかないの?」
「は……?」
彼は不可解そうにハツメを見上げる。真面目なハツメの表情に目を瞬かせた彼は、再び目線を前に戻した。
「別に。自分で何がやりたいとか、考える必要もないので。生まれたときから全部決められているのが菊葉紋、本家の跡取りのぼくです」
「それでいいの?」
「それに疑問をもったら生きていけませんよ」
笑うわけでも哀しむわけでもなく、それがさも当然のことであるかのようにアザミは言った。
ハツメは彼からもらっていた薄紅の茶を一口含んだ。ほろ苦さを含んだ甘みが口に広がると、こくりと喉に通す。
今の彼にこれを言うのは酷かもしれないが、そもそも気を遣う必要もない。そう考えたハツメは、ここずっと思っていたことを伝えることにした。
「私ね。あなたと知り合ってからそれなりに一緒に過ごしたけど、青蘭祭のときに御所で見た、舞踊を舞っていたときのあなたが一番楽しそうだったと思うわ」
「……あれ。見てたんでしたっけ」
「ええ。あの日は、私に会うつもりじゃなかったんでしょう。仕事外だったのかは知らないけど」
「あはは。どうだったかな」
乾いた笑いを漏らしてから彼はゆっくりと立ち上がった。
「もう帰ります。じゃあね、ハツメお姉ちゃん」
彼は感情を隠した顔でハツメを一目見やると、静かに部屋を出ていった。
ハツメの部屋を出たアザミはそのまま漆黒の廊下を進む。
途中、窓の外にコウエンとの連絡手段だった鷹を見つけると、彼は窓を開けてそれを招き入れた。雨だったことを一日失念していた。アザミの腕の上で濡れた翼をたたんだ鷹の背を、彼は優しく撫でてやる。その手に一度は目を閉じた鷹だったが、すぐに身を震わせると彼の腕を飛び立った。
鷹が飛んでいった反対方向、その廊下の先をアザミが見れば、彼の父親であるキダチがこちらへ歩いてくるところだった。
アザミ、と不機嫌そうに自分を呼ぶ声に、彼は身体を固くする。
「父上」
「また谷の娘のところか」
キダチの目がじとりと細まると、アザミはそれから逃げるように視線を落とす。
「陛下からは許可を頂いております」
「そういう問題ではない。あのような下等民族と馴れ合うな。菊葉紋の品位が下がる」
「……申し訳ございません」
アザミは首だけで頭を下げた。
「お前のせいで何かあってみろ。私は躊躇なくお前を殺すぞ。一族の名に泥を塗るな」
顔を険しくしたキダチはそう吐き捨てると、アザミをどかすようにして廊下を進んでいった。
アザミは離れていく父親の背を無表情で見送ると、開けっ放しだった窓を閉める。
既に雨水は廊下に侵入していて、彼の足元では濡れた黒煉瓦が冷たく艶めいていた。
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