第百三十九話 地下迷宮戦 五
武器を失い、手元には天宝珠だけが残ったハツメ。
彼女の目の前には、カリンの剣身を受け止める小柄なケイの姿があった。
ケイ、と呼んだハツメに前の人物は振り向かない。その視線と意識は注意深くカリンに向けられていた。
「アザミ。お前も……イチル様を裏切るのかしら」
刃を交差するケイに向かい、カリンは冷静に唇を開く。
アザミといえば、大将の、三剣将の一人の名前ではないか。どうしてケイに、とハツメは戸惑う。
そんな彼女を無視するかのように、知り合いらしい二人の会話は続く。
「別に裏切るわけじゃないでしょう。陛下とイチル様は最初から違うものを見てる。一族もぼくも、陛下の意向の方に従うだけです」
ハツメの知っているものよりも低い、少年の声だった。
「……お前も死にたいのですわね」
「ぼくもやり合う覚悟で来ました」
声音を落として言うカリンに、ケイは軽い調子で返す。
どちらともなく互いに刀身を弾き返すと、ケイは一度にっと笑い、面白がるように話し出した。
「……ね、カリンさんはまだ知らないでしょう。陛下、宮殿を出て第二夫人とカラミの古城に移られてるんですよ。残されたクロユリ様のお気持ちはどんなものでしょうね。あの怒りの矛先がまたイチル様に向かわないといいんですが」
「黙りなさい!」
するすると彼の口から出る言葉に、カリンの頭にさっと血が上る。
「あはは。カリンさんはそりゃあお強いですけど、イチル様のことになると、がたがたに乱れますよね」
一人だけ楽しげな彼の話は終わらない。
「家族って言われてるんでしょう、イチル様に」
『家族』という響きに眉をわずかに動かしたカリン。
そんな彼女に「でも」と、ケイは赤い唇を歪める。
「イチル様はヒダカ王子さえいればいいんですよ。そんなに尽くして、家族だとか言われても。結局愛されるのはヒダカ王子だけ。手に入ったら、カリンさんたちは捨てられるんじゃないですか? こんなに頑張ってるのに可哀想なカリンさん。……心中お察ししますよ?」
一瞬の静寂の後。
その空気も、その言葉も、粉々にするかのように。
彼女は絶叫した。
びりびりと空気が振動する。
愛剣はひしと離さず、許容できないと激しく首を振るカリン。
結われた一本の三つ編みが大きく振り乱れ、ふらふらと足元はおぼつかない。
甲高い、泣いているのか怒っているのか分からない悲鳴は続く。
長々と響き渡るその叫びにハツメは戦慄した。泣きたいとすら思った。
そして同時に。この状態を意図的につくりだした目の前のケイにも、恐怖を覚えた。
「あああああ……! うるさい!……うるさい!」
カリンは上ずった声でなおも叫ぶ。
「イチル様は平等だ! シャラを見捨てた火ノ神とは違う! イチル様がもたらす愛は! 恵みは! 平等で、尊いのだ!」
息を荒げる彼女は微かな光を注ぐ天井を仰ぐと、目だけをケイに向けてぎろりと睨む。
「アザミ……アザミ! いい気になるなよ、温室育ちの子供が!」
「あはは。カリンさんの素、怖いなあ。……ね、ハツメお姉ちゃん?」
ハツメに振り向いたケイの顔は普段と全く同じだった。
愛嬌の良い、可愛らしい笑顔。
怖い。
ケイは――アザミは。この状況を楽しんでいる。遊んでいる。
ハツメは震える足を動かし逃げようとした。
カリンからも、目の前の少年からも。
「あ、逃げないで下さいよ。また後で詳しい話をしますから、ね?」
アザミはハツメを逃さない。彼の手はしっかりと男の力で、ハツメの腕を掴み、笑う。
「一緒に陛下の元に行きましょう?」
ハツメと視線を交えたアザミは、その黒目がちの目で彼女をじっと見つめる。
そのどろりと耳に流れ込んだ『陛下』という言葉、どうしてか嬉しそうな瞳にハツメはびくりと身体を揺らす。
アザミはハツメの腕を離すと、そのまま彼女の顔へと手を伸ばした。
「いやっ……」
ハツメの短い悲鳴はすぐに途絶えた。
ふっと意識を失った彼女の身体が崩れ落ちる。
アザミは他愛もなくハツメを気絶させると、彼女の身体を一度両腕で受け止め地面に下ろす。そうして意識の抜けたハツメを慎重に冷たい壁に寄りかからせると、再びカリンの方に向き直った。
「お前も谷の娘もぶち殺す……!」
目の据わったカリンがゆらりと構える様を見て、アザミは苦笑した。
「ですよね」
彼は握っていた短剣とは別に、懐から短刀を取り出した。
鞘に菊の葉の家紋が彫り込まれたその短刀の方が、アザミの本当の得物。
右手に短剣、左手にはそれよりもさらに短い短刀をひょいと構える。
これが、アザミが本気を出すときの戦い方だった。
『麗剣』と『妖剣』。
錫ノ国の軍の最上部に立つ、二人の大将が激突した。
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文字数の関係で本日はここまでになってしまいました。
地下迷宮戦、明日で終わりです。




