第百三十五話 地下迷宮戦 一
心地の悪い沈黙。
濃密な空気がどろりと辺りに流れていく。意識しなければ呼吸が苦しいほどのそれを押し返すように、トウヤは胸の空気をゆっくりと吐き出した。
ケイはそんな重苦しさをものともせず、「あはは」と軽快に笑った。紅に強調された唇が楽し気に半月の形をとる。
「いつから気付いてました?」
ケイの大きく丸い瞳がすっと細まる。
「最初に怪しいと思ったのは海ノ国で大河を越えるとき。それからはちらほらとだ。……相当武芸に秀でているな。いくら軍閥のご令嬢と言っても限度があった」
「ふんふん。それで? それじゃあ、性別ばれる理由にはなりませんよね」
「鷹を使って国王に行き先を教えたのもお主だろう」
重々しく話すトウヤとは逆に、ケイは小鳥のさえずりのように言葉を紡いでいく。
「あれれ。見られちゃってました?」
「いいや。俺が見たのは鷹が西の方角へ飛んでいくところだけだ」
「でもそれだけじゃ無理ですよね。アサヒさんの異能の力でしょうか」
トウヤは何も言わない。だがケイは、彼の無言を肯定と取った。
「ふーん。陛下が目を付けるだけあって、やっぱり凄いんだ、異能の力」
ケイは少し考えるように、空いている左手を口元に動かす。
「でもそうすると。中身がばれたのは外見や振る舞いじゃなくて、その鷹のやり取りのせいなんですね」
「正直今見ても女子にしか見えぬ。だから半分は吹っ掛けだ」
「ああ、じゃあまんまと引っかかっちゃったわけだ。誰にもばれたことないのが自慢だったので焦っちゃいました。……でもそっか。中身、ばれちゃいましたか」
そう声を落とすと、ケイはトウヤの手を勢いよく振り払う。女子の力ではなかった。
トウヤと距離を取ったケイは子どもらしい楽し気な様子でくるりと回る。
なにが可笑しいのか、ふふ、と頬を綻ばせた。
「だからトウヤさんがいるのは嫌だったんですよね」
ケイの声色が変わった。
そのままの笑顔ではあったが、子供ながらにねっとりとしたその低い声は、今までの愛嬌の良い声とはまるで別人だった。
「本当は早く引き離したかったんです。でも花街でリンドウさんと鉢合わせようにも付いて来てくれないし、なんだかんだ引きずっちゃって。結局ここまで連れてきちゃいました」
そう言うと、ケイは唇の前で人差し指を当てる。
大きな黒目がちの目がすっと細められた。
「だめですよトウヤさん、気付いた時に言わないと。……お二人に気を遣ったんですよね。特にハツメお姉ちゃんに」
お姉ちゃん良い人ですものね、とケイは一人で頷く。
相変わらず困っている様子は微塵もないが、ふっと何かを思い出したように目線を上げた。
「そろそろ行かないと。カリンさんとリンドウさん、さすがに気付いてるんじゃないでしょうか。お互い、ハツメお姉ちゃん守りに行かなきゃ」
ケイは舞踊を舞うかのように、軽やかに一歩踏み出した。そのままトウヤに背を向ける。
「ケイ!」
「きっとぼくの方が早いです。この街の地下は初めてだと苦労しますので、入らない方がいいですよ」
ケイは一度トウヤに向かって振り向くとあざとく首を傾けて、にこりと笑った。可愛いようで、目の奥には子どもらしからぬ妖しさが宿っていた。
「ではまたきっとどこかで、トウヤさん」
ケイが脇の小路にひらりと入る。トウヤは慌てて追い掛けたが、既に小さな影は消えていた。妖に化かされたような気持ち悪さが胸にどろりと流れる。
「……早く二人の元に戻らねば」
日は完全に傾き、空は濃密な黒に覆われていた。
ケイを逃がしてしまったトウヤはぐっと唇を噛むと、ぽつぽつとガス灯が光る街を駆け出した。
一方で、ハツメの部屋を出たアサヒは水をもらうために民家の台所へと向かっていた。
ユーマと呼ばれていた男がいれば入れてくれるだろうし、いなくとも勝手に頂いて怒られはしないだろう。そう思いながら石造りの階段を降りる。
一階の廊下の奥に意識を向ければ、台所から小さな物音が聞こえてくる。誰かはいるようだ。
そうやってアサヒが部屋の前に立ち、中を見やった瞬間。
目に入ったものに全身が凍りついた。
部屋の一角でごそごそと何かを漁る、軍服の背中。
男は入口に立ったアサヒの気配に気付くと、顔だけを彼に向ける。
見目の整った男。うなじから伸びた襟足が彼の首の動きに合わせてぱさりと動いた。
その見知った姿にアサヒは目を見開く。
心臓がどくりと、短く悲鳴を上げた。
「お前は……!」
「おお、第二王子。ハツメちゃんは上かなー?」
アサヒを見て軽い調子で答えたリンドウは余裕のある笑みを浮かべ、再び彼に背を向ける。
リンドウが漁っていた木箱から何かを取り出す少しの間、アサヒはざっと部屋を見渡した。
下に目がいくと、床にユーマが倒れている。
薄暗くてはっきりしないが、冷たくなっているに違いないと、アサヒは思った。
「……殺したのか。自国民を」
「自国民ねえ。お前らを匿った裏切り者を国民とみなすかどうかの判断はびみょーだよな。……ま、俺にはどーでもいいんだけど」
そう言いながら取りだした小さな酒瓶の栓を器用に抜いたリンドウは、中の酒をぐいっとあおった。
数回喉を上下させると瓶から口を離し、彼は気持ち良さそうに唇を舐める。
「ところで、あの子供はいねーの?」
「子供? ケイのことか」
「ああ、そうそう。『ケイちゃん』、ね」
くつくつとリンドウは喉の奥を鳴らす。
「ほんと詐欺だよなー、あの芸者姿。俺ですら初対面は騙されたんだから」
意が汲めないと眉をひそめるアサヒに構わず、彼はなんとも愉快げに話し続ける。
「男に手を出しそうになったとか、ほんっと人生の汚点だよな。お前らも気付かなかったろ? あいつ、化けるのは得意だから」
そう言ってリンドウが口の端を上げた瞬間。
硝子の激しく割れる音が家中に響き渡った。
「ああーもう。待っててって言ったのに、姐さんはせっかちなんだから」
リンドウは困った様子もなく笑うと、「もう一口だけ」と酒瓶を傾ける。
眼前の悠長な男を見つめながら、アサヒに戦慄が走る。
信じたくない状況だが、理解はした。
――ハツメ。ハツメが二階で寝ているのだ。
彼女の元へ行かなければ。
そうやってアサヒが駆け出そうとすると、残りの入った酒瓶が彼の頭目掛けて飛んできた。
腕ではなく、咄嗟に抜いた剣でその瓶を跳ね返す。
その判断は正しかった。
瓶を投げたリンドウは次の瞬間にはアサヒに差し迫っていて、抜き身の剣をかざしていた。
刃の交わる音と、瓶が壁にぶつかり割れる音が重なる。
「……あ。危ない危ない。お前に怪我させたらイチル様に怒られるんだった」
リンドウはアサヒの焦った表情を覗くと、楽しげに目を細めた。
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