第百三十四話 静夜の想い
背後でこんこんと硝子窓をつつく音がして、カリンは目を開けた。胸元まで花の湯舟に浸かる彼女は、首だけ動かして後ろを見やる。
壁一面にはめられた最高級の一枚硝子の向こうには、よく見知った後ろ姿があった。長い襟足のひと束を自身の背中と硝子に挟めて窓にもたれかかる、カリンより二つ年下の弟分。
武人にしては細い方だが、あんなに華奢だった男児がよくここまで大きくなったなとカリン自身もよく分からない感慨にふけりながら、彼女は湯舟を出る。
軽く身体を拭いてから一枚薄い衣を羽織ると、彼女は硝子窓の横の木戸から室内へと戻る。
「何だ。遊びに行ったと思っていたが」
彼女の口調が無意識のうちに昔に戻っているのは、過去を回想していたからか。
「本当はそうしたかったんすけどねー」
硝子窓にもたれたままのリンドウは、カリンから目を背けて口を開く。
「あいつら来てるみたいっすよ」
彼の言葉にカリンの眉がぴくりと動く。
その反応を空気で感じ取ったリンドウは「外で待ってますんで」と静かに続けると、最後までカリンを見ないまま、彼女の自室から早々に出て行った。
そうすると着るのは夜着じゃなくて、軍服か。
彼女は今しがた羽織ったばかりの下衣をぱさりと床に脱ぎ捨てた。
その頃、ハツメたちがいるシャラの民家では。
「着替えとか手伝えるのは役得ですね」
薬である程度楽にはなったものの、大事を取って就寝しようとするハツメの横で、ケイが衣のあれこれを世話していた。先程まで解いていた旅荷をまとめながら上機嫌のケイは続ける。
「ハツメお姉ちゃんって被衣とか羽織らないんですか?」
「そこまで上品に歩けないわ」
布団に潜ったハツメがふふっと笑うと、ケイは素直な顔で口を開く。
「そんなことないと思いますけど。今度、あたしの好きなやつあげますから羽織ってみて下さいよ」
「申し訳ないわ」
「いいんですよ、友情の証ということで。ハツメお姉ちゃん淡い色ばかり着てますけど、濃い色も似合うと思うんですよね。紫とか」
そう言うとケイは横たわるハツメの脇にしゃがみ、にっこりと笑いかけた。
「だからその色の被衣、差し上げます」
ハツメが就寝の準備をしている間。
アサヒは廊下の壁にもたれかかり、一枚の書き付けを眺めていた。海ノ都を出る際にカナトからもらったものだ。内容は、錫ノ国の中を移動している反乱軍の行き先について。
忘れていたわけではないのだが、栄えているシャラの街を見たときに見返そうと思ったのだ。
軍の影響力が大きいシャラの名前はやはり書き付けの中には入っていなかった。南方の海側まで出て、かなり遠回りするのかもしれない。
カナトたちは自分の目的とは違うため、都自体目指さなくてもいいものな、とアサヒは納得する。
ただ、ぼんやりとだが、このままで何とかなるのだろうか、と彼は不安を感じていた。
神宝を手に入れるのはあくまで手段であって、本当の目的ではない。そこから母親を国王から解放して、同時に第一王子を止めることが自分たちの目的だ。
大陸の戦を終わらせるためにも、ハツメと二人で谷ノ国に帰るためにも。
いずれにしても今の王族をなんとかしなければならない。
だが今も、その明確な手段ははっきりしないまま。
正直なところ錫ノ国の集団の力に張り合える気がしない。
ここでカナトに言えば力になってくれるだろう。
ただそのときは――自分は錫ノ国に残ることになる。
「アサヒさん?」
「……ああ、ケイか」
ハツメの就寝の準備は終わったようで、ケイは部屋の外に出て来ていた。
「それって反乱軍の人からもらった書き付けですか? あたしでよかったら地名の場所、教えましょうか」
「それなら――」
「ケイ」
次に名を呼んだのはトウヤだった。階段を上がってきた彼はそのまま続ける。
「日も暮れて人も少なくなったろう。街の様子が見たいのだ。案内してもらえぬか」
「今からですか? ……うーん、いいですよ」
少し驚いた様子のケイだったが、すぐに愛嬌のいい笑顔をつくるとトウヤに歩み寄る。
「じゃあ行きましょうか。トウヤさん」
「ああ。……アサヒ。そういうことでちょっと出てくる。早めに戻りたいとは思っている」
「わかった」
アサヒが頷くとトウヤは少しだけ口の端を上げて踵を返す。そのまま彼はケイと共に階段を降りていった。
こんこん、と二回部屋の木戸を叩けば、中からハツメの声がした。
アサヒが部屋に入るとハツメは布団に入っていて、こちらを向いて少し恥ずかしげに微笑んだ。
彼は横たわるハツメの近くに椅子を寄せて、腰を掛ける。
穏やかな表情をつくりながら、内心ではさほどの考え事を続けていた。
自分が錫ノ国に残れば、ハツメはどうするだろうか。
多分、頼めば一緒にいてくれる。ハツメが自分に寄せる気持ちには、なんとなく気付いている。
だが、ハツメに錫ノ国は似合わない。
本当は谷ノ国に帰したい。もしそれが無理なら、山ノ国にでも。
トウヤならハツメのために何でもするだろう。
けっして頼むのではなく、ハツメがそれを選ぶのなら。
「……アサヒ? 大丈夫?」
「ああ。大丈夫だ」
ハツメがアサヒを見上げると、彼は優しい目で彼女と視線を交わす。
「迷惑かけて、ごめんね」
「何がだ」
「体調のこと。置いて行かないでくれてありがとう。少し意地悪なこと言っちゃったって、反省していたの」
そう言ってハツメは申し訳なさそうに眉を下げ、小さな唇を結ぶ。
「そうだな。置いて行くなんてありえない」
アサヒがハツメを見つめて目を細めると、ハツメは布団を少しだけ引っ張って顔を半分隠す。
こうして二人きりで話す時間は久しぶりだ。
穏やかな夜。大きな街のシャラだが、この辺りの夜は静かなようだ。
少しの間、心地良く流れる静寂を共有した二人。
ふいにハツメが口を開いた。
「アサヒ――」
「ハツメ。……夜中に空咳が出たら大変だから、水をもらってこようか」
「すぐ戻るから」と、アサヒは席を立つ。
直前の考え事のせいだった。
彼にはハツメが何を言おうとしたか、何となく分かった。
分かったうえで、受け止める自信をなくしてしまったのだった。
アサヒが部屋から出ていった後、ハツメは真っ白な天井を見上げてぽつりと呟く。
「……言わせてもらえなかった」
海ノ国からずっと抱えていた想い。
いや、多分海ノ国での、鎮魂祭でのことはあくまでその気持ちに気付くきっかけに過ぎなくて。
実際にはもっと前から、アサヒのことが好きだった。
それは家族としてなのだと思っていたけれど、そうではなかった。
「戻ってきたら、言えるかしら」
花ノ国でアサヒが自分に想いを告げてくれたとき、きっとアサヒはとても頑張ってくれたのだろうと思う。自分が言う立場になればよく分かった。
家族にせよ何にせよ、一度結んだ関係を解くのは怖い。また結んでもらえるかどうか分からないのだから。アサヒの気持ちを知ったハツメでさえそうなのだから、アサヒはもっと怖かっただろう。
だからアサヒがどう受け取ろうと、この気持ちは頑張って伝えようと。
ハツメはそう思っていた。
こっそりとシャラの街中に出たトウヤとケイは、夜中も働いているらしい工場群の光を見ながら石畳の路地を歩いていた。
「トウヤさんが女の子を誘うなんて、なかなかないんじゃないですか?」
「そうだな。人生でハツメ嬢の一人だけだ」
一歩先を行くケイが前を見ながら楽しげに話すと、落ち着いた口調でトウヤが返す。
シャラの夜は思いのほか静からしい。ガス灯が爛々と輝く路地だが、二人以外に人はいなかった。
トウヤの言葉にケイはくすりと笑う。
「わあ。じゃああたしが二人目でしょうか」
「いや――」
突然触られた感覚に、ケイが背後のトウヤを振り返り、丸い目を見開いた。
トウヤの左手はケイの右腕をしっかりと掴んでいた。
彼はケイを見据えて冷静に言葉を発する。
「ケイ。お主何者だ」
「……あは、やだなぁトウヤさん。あたしはあたしに決まってるじゃないですか」
トウヤの問いをケイは軽く笑い飛ばすと、愛想のいい顔で彼の目をじっと見つめる。
「女の子の腕を突然掴むなんて、らしくないんじゃないですか?」
「そうだな。――お主が本当に女子ならな」
ひと気のない路地を、一層の静寂が覆う。
トウヤが冷ややかにケイを見下ろせば、彼は真っ赤な唇を歪ませ、にこりと笑った。
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