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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第四章 錫ノ国編
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第百三十三話 忌み地の少女 二

 「どうしたの? 随分と騒がしいけれど」


 その一声で、場にいた全員がぴたりと動きを止めた。


 他者を抑えつけようという、厳めしい声ではない。咎めるような口調でもない。


 むしろそれは、熟れた果実を口に含んだような甘い声。

 全身を撫でる柔らかい口調だった。


 それでも年端もいかない少年のものと思われるその声に、少女たちだけでなく大の大人二人も動けなくなっている。


 彼女の頭のどこかで警鐘が鳴っていた。今まで彼女が聞いてきたどんな声よりも穏やかだが、『この声には抗ってはいけない』と。しかしその警鐘も決してけたたましい不快なものではなく、いつまでも聞いていたい、静かな夜に響く清廉な鐘の音だった。


「もう一度聞くけれど、どうしたの?」


 なおも穏やかに紡がれる少年の言葉に、少女にのしかかっている男がようやく視線を声の方へと向ける。少女の首に当てられた手はそのままだ。彼女が見ることが出来るのは呆気に取られた男の顔と、薄汚い天井のみ。男は廊下からこぼれる橙の光の方を見やると、小さく口を動かした。


 イチル様、と。


 少女を押さえつける男は一度息を継ぐ。無意識に絞められていた声帯が緩んだらしい。

 ふっと息を吐くと、今度は焦ったように口を開く。


「いえ、イチル様。此度の平定で捕らえた孤児(みなしご)が反抗したもので……」


孤児(みなしご)? ……ああ。内戦地だもの、そういうこともあるよね」


 少年の割り切ったような物言いに、腹は立たなかった。

 物心ついたときから受け入れていた事実であったし、中途半端に同情されるよりはよっぽどましだった。


 それに何よりも――腹が立つより先に、続けて発せられた少年の言葉に耳を疑ったのだ。


「三人とも私が引き取るよ」


 耳を疑ったのは少女だけではなかったようだ。男たちの動揺する空気が彼女にも伝わった。


「は……? いや……イチル様。こちらの一人がやられたのです。それに、こんな忌み地の孤児(みなしご)など……」


「なに? 君たちがこの子らを好きにしてよくて、私ができない理由なんてあるの? ……私の言葉、理解できてるでしょう。さっさと出て行って」


 最後まで穏やかだった。穏やかだったが、すっかり身がすくんだ少女の上の男。

 男は彼女の首に触れていた手を引っ込めると、慌てた様子で身を引いた。


 この時、ようやく彼女は解放された。

 のしかかっていた男の体重がなくなり、全身の力が抜ける。

 自由になった首を動かし地下室の出口を見ると、ばたばたと男二人が出ていくところだった。


 大きな人影が二つ消える。

 それと同時に、一人の少年の姿が彼女の世界に現れた。



 ――美しい。



 荒んだものしか目に入らなかった人生で。初めて彼女は『美しい』の意味を知った。


 廊下のランプの炎光が、彼の全身を通して地下室へと注がれる。それは暗い世界に慣れてしまった彼女にも見ることを諦めさせない、優しい後光だった。


 少年が地下室に一歩足を踏み入れると、橙の淡い光と金色の髪がするりと溶け合う。

 限りなく整った美貌が彼女を向く。

 視線が合うと彼の深茶色の目が優しげに細められ、彼女は息を呑んだ。


 少年は彼女に歩み寄り、膝を付く。

 そうして彼女をゆっくりと抱き起こすと、花を彷彿とさせる、その艶やかな唇を開いた。


「名前はなんて言うのかな」


 さきほどの声。全身を撫で上げる、甘く、蜜に濡れたような声。


「……カリン」


 ほうっと熱い息を吐くように、彼女は自身の名を伝えた。


「いい名前だね。名付けは親?」


「……知りません」


「そっか。……誰にせよ、君にその名を付けた人は。この不毛の地で、どんな気持ちでその名前を付けたのだろうね」


 どこか感じ入るように話す、美しい少年。

 彼の言っている意味がいまいち分からず、彼女は首を傾ける。

 彼はその様子を見て優しく語りかけた。


「カリンの花言葉はね。『豊麗』っていうんだよ」


「ほうれい……?」


「そう。豊かで美しいこと。私はこの土地をそういうところにしたいんだ。そしてカリンちゃんも、そういう人間になる。だから私と一緒においで」


 彼は柔らかくそう言うと、同じく地下室にいた二人の少年にも視線を向ける。


 体躯の良い一人は立ち尽くし、華奢なもう一人は壁に寄りかかり、顔を涙で濡らしている。

 二人はどちらも、金色の髪をもつ美貌の彼を凝視していた。


「君たちもおいで。今日から三人とも、私の家族だよ」




 彼女はありきたりな表現しか思い浮かばない、馬鹿な自分が恨めしかった。


 尊い。これほど美しい人間がいたものか。


 ――神様。


 金色の髪をもつこの御人は神様だ。

 温かい手をもつ神様なのだ。






 当時十二歳だったイチルの初陣が、シャラにおける内乱の平定だった。

 彼はカリンたち三人だけでなく、散らばった彼女らの仲間をはじめ生き残った孤児(みなしご)全員を引き取った。


 イチルは孤児(みなしご)たちが自立して生きていけるように整った環境と仕事を与え、その中でも道を選ばせたが、カリンたち三人は彼の下で剣を握ることを望んだ。


 兄貴分や弟分とともに特例の若さで入軍したカリン。彼女はイチルの側近にふさわしくなるべく一心に力を付け、軍閥や家柄、性差の全てをはね退け今に至る。



 忌み地の孤児(みなしご)だった少女が一国の大将までのぼり詰めた経緯だった。

お読み頂きありがとうございます。

明日からはまた主人公組になります。

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