第百三十一話 カリンの帰郷
彼女がシャラの話をすると、都にいる大抵の部下は色彩に乏しい無機質な工場群を思い浮かべる。
工業都市と呼ばれているから仕方がないのかもしれないが、実際のシャラの景観は違う。
確かに工場群もあるが、自然に溢れている。
大きな水路が引かれ土壌改良が進んだ今、この地を不毛の地などと言う者はいない。
そんなシャラの一等地には、掘に囲まれた巨大な庭園がある。
果樹園も併置されたそこは、ここを故郷とする三人――実際には彼女の私有地となっている。
庭園内には彼女たちのシャラにおける住居が一軒建っていた。
緑の少ない錫ノ国で建てられた、木造二階建ての大豪邸。
実家のような意味合いで建てられたものだが、普段は主と共に都にいるため実際に使用するのは年に数回しかない。
それでも彼女はこの大豪邸に、果樹園に、巨大庭園に、シャラの街に。
並々ならぬ愛着を持っていた。
庭園内の屋敷の一角。
一糸まとわぬ姿のカリンは、湯を張った浴槽に足先を入れる。
彼女が思う完璧な温度だ。露天での長風呂にはちょうどいい。
そのまま身体を胸の上まで湯船に沈める。いつもは一本の三つ編みで下ろしている髪型だが、今は髪を大きく結いあげ、綺麗なうなじをあらわにしている。性格がきつく男気すら感じられる彼女だが、今の姿は普段よりも色香があった。
湯に浸かったカリンは一度静かに息を吐いた後で、すうっと辺りの空気を吸い込む。
木の爽やかな香りと花の甘い香りが混じり合い、彼女の鼻孔をくすぐった。
檜の浴槽に張った湯には、夕摘みの白い野薔薇が贅沢に浮かんでいた。
果樹園の中を抜けてきた涼しい風がカリンの頬を撫でると、彼女はうっとりとした表情で目を上げた。
視線の先に広がるのは彼女の名と同じ安蘭樹の果樹園。
さらにその向こうには夕日に照らされた美しい銀の塔が輝いている。
至福の時間に身を委ねる彼女だが、つい先ほどまではその銀の塔――製鉄高炉の下にある製鉄所へと顔を出していた。
「お久しぶりです、カリン様!」
「カリン様、お疲れ様です!」
「あなたたちも御苦労さま」
軍服姿のカリンが顔を出すと、工員はみな彼女に向き直り敬礼をする。
そんな中を悠々と歩くカリンは片手をあげ、工員たちに上機嫌に返す。
部下に慕われるのは気持ちがいい。彼らが慕うのはカリンだけではないから、なおさらだ。
工場の奥へと歩を進めるカリンの側に、一人の青年が歩み寄る。
「お久しぶりです。カリン姐さん」
「あら、久しいですわね」
頭を刈り上げた青年はカリンと同年代。彼女たちの忌み地時代からの付き合いだった。
「みな元気にやっているかしら」
「ええ。姐さんたちと、イチル様のおかげです。エンジュ兄さんは今回来なかったんですね」
「三人で来るわけにはいきませんのよ。イチル様をお一人には出来ませんもの」
カリンの口調は珍しく穏やかなものになっていた。青年もまた朗らかに笑う。
「今度はイチル様にもぜひと」
「伝えておきますわ」
彼女はとても気持ちがよかった。
その熱量はともかく、彼らの忠誠心はカリンと同じ方向を向いている。
彼女が神と崇める主に。
カリンが心地良さに浸っていると、青年は「あ」と思い出したように口を開いた。
「それとリンドウのやつなんですけど。姐さんから少し言ってもらえませんか」
何をとまで言わないのは、彼らにとってもいつものことだからだ。
「はあ……あの馬鹿」
カリンもまたいつも通りながら、眉間に手を当てて深く溜息を吐いた。
カリンが視察から戻ってくれば、リンドウは既に遊びに行った後だった。
どうせ朝帰りだろうから今日のところは忘れて、自分も帰郷を満喫するに限る。そう思ったカリンは屋敷を任せている使用人に頼み、露天風呂に湯を張ってもらったのだった。
湯船に浸かる彼女がちゃぷん、と音を立てて片脚を上げれば、滑らかな肌があらわになる。武人のものとは思えない、思わせないようにつくりあげた彼女の身体。
傷一つないそれは彼女の軍人としての誇りであり、女としてのこだわりだった。
完璧すぎる主の後ろにいても恥ずかしくないように。
この巨大庭園はイチルがカリンに与えた、彼女にとっての完璧で、美しい箱庭だ。
彼女の生まれを考えれば、イチルなしでは到底得られなかったもの。
そして彼が彼女に与えたものは、物だけではなかった。
誰もから蔑まれ疎まれた忌み地の貧民窟。
そこの孤児から軍事大国の大将へ。
錫ノ国で――いや大陸で誰よりものし上がった人間を決めるとすれば、それは彼女だった。
お読み頂きありがとうございます。




