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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第四章 錫ノ国編
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第百二十六話 帰国後の宮殿

 錫ノ国の都、セイヨウ。

 広大に発展した都の背後には山脈がそびえるが、山脈にさしかかる手前、都の最奥に大きな台地がある。


 都を一望できるその荘厳な高台に座するのがセイヨウ宮殿。

 錫ノ国の王族の住居であり、軍政の中枢が置かれる場所でもある。

 王族の生活区にはよほどの人でなければ立ち入ることはできないが、そこ以外ならば大国の軍政を回すためと昼夜問わず人々が行き交う。


 そんな中、板張りの広い回廊を進むのは体躯の良い、短髪の男。彼を知る者にその印象を聞けば、大抵の人が「質実剛健」と答える。まさにその通りで、その威風堂々と歩く様はまさに大将然。見せる貫禄は彼の二つ名である『豪剣』に恥じないものだった。


「エンジュ様」


 長身の彼は、大抵の人間は見下ろすような形になる。

 かけられた声にエンジュが振り向き目線を落とすと、品良く立つ一人の女子の姿があった。


 歳は十七歳。少しの風でも靡きそうなさらさらの黒髪。肌の色が白く、見栄えのいい容姿。

 イチルの世話係の一人だった。


 軍人や文官とも違う宮殿仕えの者、それも主の世話係がここまで来るのは珍しいとエンジュが彼女を見ると、相手は無表情のまま控え目に口を開いた。


「あの、イチル様のお姿が見えないのですが……」


 エンジュの斜め下辺りを見つめながら世話係は呟く。


 ――よく教育されている。


 女子があえて無表情をつくり視線を合わせないのは、エンジュがどうこうという理由ではない。

 主人以外に関心を示さないよう、主人以外をむやみに視界に入れないよう、イチルが世話係全員に教育していた。


「日中、クロユリ様がお二人での『用』があるとのことだったが」


「あれから戻られないのです」


 もう日が変わっている。世話係が心配するのも納得だった。


「探してみよう。明日も早いのだろう。お前らは休んでいいと思うぞ」


「とんでもございません。お部屋を整えてお待ちしております」


 ありがとうございますエンジュ様、と世話係が頭を下げる。

 横は耳、後ろはうなじまでの黒髪がさらりと流れた。以前は長髪を結っていたはずだが、今の女子の髪型は男子のようだ。


「……髪、切ったのだな」


「はい。海ノ国から戻られてすぐ、イチル様が切るように仰ったので」


 エンジュの頭に第二王子の姿が浮かぶ。

 目の前の女子は山ノ国で見たときの第二王子の髪型そのままだ。花ノ国でも似たようなものだったか。


 今まではそうさせていなかっただけに、海ノ国で手に入らなかったのがよほど気に掛かっているらしい。


「そうか。イチル様がいいならいいのだ。……では行ってこよう」


「ありがとうございます」


 もう一度世話係の女子は頭を下げた。

 その様子を一瞥すると、エンジュは迷いなく踵を返す。




 探すと言ったが、場所はもう分かっていた。




 宮殿の中心からはずれ、東にある庭園を進む。

 緑の少ない錫ノ国において贅を尽くすように植えられた草木。その間を抜け、都下へと流れる人口川に架けられた木橋を越えれば、そこからは少し雰囲気が変わる。


 宮殿からの距離は近いが、そこは日中でもひと気のない場所。


 少しでも自然のままを表現するため、長期計画の中で造られた人工林だった。

 地面に張った合歓(ねむ)の木の根を時折踏みしめながら進むとすぐに、それほど大きくない土蔵がある。


 元々の用途は知らない。もう五十年前にもなる大火で残った後に人工林を造る中で利用され、なぜだかそのまま放置されているらしかった。


 建てられてから結構な年月が経っている土蔵は漆喰の白壁がところどころ剥がれ落ちている。そのせいもあるだろう、月明かりの下で白く浮き上がるその遺物は、エンジュに一層不気味な気配を感じさせた。


 一階部分に付けられた鉄柵の窓を通り過ぎ、土蔵の扉に近付く。

 分厚い漆喰の戸は開け放たれているが、二枚目の頑丈な木戸は閉められている。


 錠が開いているのは知っている。


 この土蔵の錠は今や開いたまま。

 処分していなければクロユリが鍵を持っているはずだが、彼女はもうここには来ないだろう。


 エンジュが木戸に手を掛けようとすると、先に中からずず、とその引き戸が開けられた。


「あれ。エンジュくん」


「……イチル様」


「心配して来てくれたんだ」


「勝手なことをしました」


「いや」


 淡々と言葉を紡ぎ微笑むイチルの滑らかな頬には、赤い擦り傷が付いていた。

 当然一人で付いたものではなく、日中彼の母親に付けられたものに違いない。


 傷に気付いたらしいエンジュを見て、イチルが口を開く。


「ミヅハを行かせたから、何か言われるとは思っていたんだけどね。まさか父様までいなくなっているとは思わなかった」


 そう言って苦笑いする主がいたわしくなり、エンジュはそっと目を伏せる。



 航路で帰国したイチルたちが宮殿に戻ると、国王であるコウエンは姿を消していた。

 共に消えたのは明らかに国王寄りだった軍の関係者と、それなりの数の兵。

 そして冷たい第二夫人だった。



 イチルたちが宮殿に戻った際のクロユリの様子といったら酷いものだった。

 人前では隠しているようだったが、必ず主と二人きりになるとエンジュにも予想できた。


 ただでさえそれなのに、その後にミヅハがいないことも知ったのだ。

 主の母親の病的興奮は相当だったに違いない。

 そしてその矛先は、いかなる場合も全て主に向く。


 エンジュから見て、クロユリは主にとって良い存在ではない。

 だがそれを切り捨てず、むしろ全霊で受け入れる主の気持ちも分からなかった。

 とはいえエンジュもまた、まともな親の記憶はない。

 当然だが、何かできる立場でもなかった。




 二人は土蔵を離れ、宮殿への道を帰る。


「父様の居場所は分かった?」


「はい。カラミの古城におられるそうです」


 エンジュの先を行くイチルの背に、彼はよどみなく答えを返す。


「カラミね。しばらく使っていなかったけど、いつから準備していたんだか」


 そう言うとイチルはふうと吐息を吐いた。


「そうすると、今は放し飼いのアザミくんもいずれはそこに向かうのかな」


「かと思われます」


「谷の娘はともかく、ヒダカが何かされないか心配……」


 イチルの口調は変わらず穏やかだったが、エンジュは自分の背筋をそっと撫でる何かを感じた。

 主の背後に付く彼には、今の主の顔が分からない。


「いずれにしても、全員シャラに寄るのは確実でしょう。あの二人なら見逃しませんので、何卒」


 主がこちらを見るはずもないが、エンジュは歩を進めながらもすっと頭を下げた。


「そうだね。あの土地で君たちに敵う人間はいないから」


「恐縮です」


 自分の背を撫でていた何かが消えた。

 エンジュが顔を上げると、人とは離れた金色の髪が夜風に揺らめいていた。


 (うず)くようにざわざわと揺れる合歓(ねむ)の音に、エンジュはちらりと背後を見やる。


 ほの暗い合歓(ねむ)の森にひっそりと佇む土蔵。

 もう閉じ込められることはないというのに、イチルはクロユリの折檻の後は必ず、自らの意志でそこにこもる。

 一体それが何の意味をもつのか、十一年間主に仕える彼でさえも想像がつかなかった。

お読み頂きありがとうございます。

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