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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第四章 錫ノ国編
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第百二十五話 漆黒の部屋

 こらえきれなかったような空咳が数回、アサヒの背後から聞こえる。

 彼が心配になって振り向けば、青白い顔のハツメが衣の裾で口を押さえていた。


 ここでアサヒが「大丈夫か」と聞けば彼女はすぐに「平気」と返す。

 数日前からもう何度もやり取りした会話だった。


 一行はケイを先頭にアサヒが続き、その後にハツメ、トウヤという順で山道を進んでいる。細い山道の両端には背の低い雑草が薄っすらと生え、大小の岩石が転がる。岩石は遠目で見た山の色彩と同じ、白色のものがほとんどだ。


 ケイの話によると、この辺りの山は石灰岩で形成されているらしい。もう少し先に進むと大規模な採掘場があり、工業都市であるシャラへと供給しているそうだ。


 しかしながら、緑が少なく空気が悪い。

 ハツメは何も言わないが、彼女の空咳の原因はそこにあるとアサヒは考える。

 アサヒ自身、清々しいとはいえない空気に身体が呼吸を嫌がっている気がしていた。


「少し休むのはどうだ、ケイ」


 口を開いたのはトウヤだった。「体調より優先するものはないだろう」と言う彼に、ケイは少し考えてからその提案を了承した。




 岩場に腰を落ちつけた四人は思い思いに身を休める。アサヒやトウヤ、ケイの三人にあるのは歩き疲れだけだったが、ハツメは違った。彼女は岩に背をもたれると苦しそうに息を吐いた。これまで旅をしてきてこんなことは初めてだ。

 ハツメは元々人よりも走れるし、訓練だってしている。アサヒも彼女は人よりも丈夫なのだと思ってしまっていた。


「この辺りの空気の悪さはなんなんだ。この山の特徴とはいっても、緑も極端に少ないように思えるが」


「やっぱりそうですよね」


 アサヒの言葉にケイが頷いた。アサヒやトウヤと同様にケイも心配そうにハツメを見やると、乾燥で乾いてきた唇をぺろりと舐めてから話し始める。


「別に伐採したからとかじゃないんですよ。空気が悪いのも植物が少ないのも元々です。ここも含めてシャラのある地域はずっと植物のない、不毛の地だったんです。『忌み地』って呼ばれてました」


「過去形なのはどうしてだ」


「今はシャラと、その近辺にはちゃんと植物が育つんです。育つようにしたんですけど、ね」


 「塗り直そうかな」とケイは小さく呟くと、抱えていた荷物からごそごそと紅を取り出す。手を動かしながらも小さな口は続ける。


「シャラに近付けば大きな用水路が引かれていて、植樹が進んでいるのが分かりますよ。発展が続いているんです。人工物も、自然のものも」


 手鏡で自分の顔と向き合いながら、手巾で拭いた指ですっすっと慣れたように紅を引く。そのままケイは三人の顔を見ずに、軽い口調で言った。


「ここも昔よりはましになったそうですよ。十年ちょっと前は空気が悪いだけじゃなくて、その辺で人が死んでたそうですから」


「それは一体」


 どういうことだ、とアサヒが言いそうになったときだった。


 ちら、ちらと白い炎が視界に現れ始める。


 ――またか。


 アサヒは顔を俯かせ、片手で両目を覆う。

 身体がぐらつく中、倒れて頭でも打ったらかなわないと、仰向けで横たわる。


 手を下ろせば、厚みのある雲が混じる青空が、揺らぐ白炎で侵されていく。

 視界がかすれていく中、自分を覗きこむハツメの不安げな表情が見えた。

 横になり上下する胸に添えられた彼女の手は小さく、儚げなものだった。


 体調が悪いハツメにこんな思いをさせるなんて。


 アサヒは自身の不甲斐なさに憤りを感じながら、その意識を遠のかせていった。




 アサヒの意識が飛んだところは、見たことのない材質の建物だった。

 四方の床には蔦模様の刺繍が贅沢に入った紺色の絨毯が敷かれているが、周囲の壁や天井は硬質な黒に覆われている。一つ一つの形は煉瓦のようだが、色調は漆黒。乾いてはいるが、水で濡らせば光沢の出そうな艶っぽい黒だ。


 それほど広くない一室。頬を撫でた風の感触に風上を見やれば、開け放たれた窓の前に堂々と佇む一人の男が目に入る。


 アサヒはその男を数秒見つめると――ひゅっと息を吸い込んだ。


 突然与えられた刺激に渇いた喉がじりじりと痛む。

 息を吐きたいが、吐き方を忘れたように肺が詰まる。

 彼は肺に溜まった空気を無理矢理外に押しやると、呼吸を整えながら前の男への注意を高める。



 アサヒはこの男を知っていた。

 後ろ姿だが、彼と同じほどの背格好、豪奢な紅の着物。



 彼の実の父親。錫ノ国の国王、コウエンだった。



 この男の姿を見たのは二回目だ。前回は山ノ国で、初めて異能の力が発現したときだった。そのときのコウエンは外界に興味をなくしたように、アサヒの母親の亡骸にべったりと身体を伏せていた。


 アサヒは思わず周囲を見渡す。母親がいるかもしれないと思ったからだが、この部屋には木製の寝台と机、椅子以外には何もない。母親はどこにいるのか、ここはどこなのだろうかと彼は唇を噛む。


 再び父親に視線を戻すと、コウエンは金糸の刺繍の入った裾を広げ、窓の外に片腕を伸ばしていた。


 悠々と伸ばされたその腕に、一陣の風を伴ってばさりと鷹が舞い降りる。


 コウエンはもう一方の腕で鷹の脚から何かを外すと、鷹が掴まる腕を大きく振る。彼は紅衣の金糸を煌めかせながら、慣れたように晴れ渡る大空へと鷹を放った。


「国王陛下」


 アサヒの背後から声がする。


「愚息からでしょうか」


 少し抑揚のある、ねっとりとした声にアサヒが振り向くと、壮年の雰囲気の男が頭を半分ほど下げて立っていた。知らぬ間に部屋の扉は開いており、そこから入ってきたようだった。


「そうだ。シャラに向かっているらしいな」


 窓際から聞こえたのは逆に抑揚のない、冷たい声。

 アサヒは二人の姿が見えるように数歩下がる。


 彼は父親の顔を初めて見た。

 特に何かの記憶を思い出すわけでもない。


 ただ聞いていた年齢――五十歳前後よりは若く見えた。

 艶のある黒髪は頬にかかり、鋭い目付きだが美しい顔立ち。


 自分との繋がりはあまり感じられず、ミヅハに似ているというのは本当だったのだな、というのがアサヒの抱いた感想だった。


 コウエンの『シャラ』という言葉に、後から来た男は頭を下げたまま返す。


「あの忌み地でございますか。何事もなくお連れできればいいのですが」


「そうでなくては困る。……お前も動いているのだろうな」


「もちろんでございます。そのために大将の位を愚息に譲りましたので」


 「愚息は表でいい目眩しになってくれているでしょう」と男は愉しげに言った。


「アザミもお前もこのまま動け」


「はい。我らは表も裏も、国王陛下のためにのみ存在する一族でございますれば」


「ふん。余がいなくなればイチルか」


 どこまでも淡々と話すコウエンは、無表情のまま扉の男を見やる。


「僭越ながらそれはないかと。イチル様は雑種(・・)がお好きなようですし」


「自分は純血種だと?」


「そのくらいの自負は持たせて下さいませ、陛下」


 そう言うと扉の前の男は少しだけ顔を上げ、自分の王を上目遣いで見た。

 壮年の雰囲気の通り、実際もそのくらいの歳のようだ。コウエンとは異なり顔には年相応に小皺も見られる。目尻のやや下がった目付きをしたその男、見目は悪くないが、いい雰囲気を纏ってはいない。口調と同様にどこか粘っこい視線がアサヒには気持ち悪かった。


 コウエンの背後には清々しい青空がどこまでも広がっているというのに、この漆黒の部屋だけは空気がどろどろと流れている。その閉塞感、得体の知れないおぞましさは、アサヒが吐いてしまいたいと感じるほどだった。

お読み頂きありがとうございます。

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