第百二十話 リンドウ
ある日の夕方、当時十七歳だったリンドウが宮殿の外をうろついているとき。
正確には軍事訓練をさぼって都下で昼酒を嗜んだ後、帰宅しようと歩いているときだった。
正面から入って誰かに見つかると小言が面倒なため、あえてひと気のない裏を行く。
にわか雨が降ったのだなと、泥を避けるよう石伝いに歩いていると、彼のよく知る姉貴分と、それに対峙する二人の男の姿が目に入る。
宮殿の厚い白漆喰の壁を背に立つのはカリン。なにやら男の一人と物の取り合いをしている。
彼女が必死に腕を伸ばし掴むそれをよく見れば、彼女の愛剣だった。両手で縋りつく彼女を鬱陶しがるように男は口を開く。
「女などに剣は必要ないだろう!」
「離して下さいませ!」
男の正体は事もあろうに大将だった。もう一人、二人のやり取りを隣で傍観する男も大将の一人。
当時の大将も今と同じ三人。みなイチルが完全に軍を任せられる以前からの古株で、眼前の二人はどちらも年齢は四十代。リンドウからすれば彼らの経歴など興味もないが、少なくとも十代で中将になったカリンが気に入らないのだろう。加えて軍の歴史を遡っても、女性にして軍人となったのは彼女一人。女性が軍に入隊して、ましてや出世などおこがましいと考えているに違いない。
手を離そうとしないカリンに男は舌打ちをすると、腕で彼女を突き飛ばした。彼女は壁に一度背を打ちつけると、雨にぬかるんだ土の上に倒れ込む。
「男より強くなろうなど笑わせてくれる! 忌み地の孤児が身の程をしれ!」
大将の一人はそうなじるとカリンの剣を地面に捨て、足でぐいと踏み入れた。柄に収まった剣が汚泥に沈む。隣でその様子を眺めていたもう一人の大将が、泥に汚れた彼女と剣を見下ろしてほくそ笑んだ。
そこまで見たリンドウは一度ゆっくりと瞬きをすると、三人に向かい歩を進める。
伸ばした襟足をくるくると細長い指に絡ませながら、彼は口を開く。
「いやー、大将殿。強い女を愛でる愉しさが分からないとは、なんとも勿体ないことで」
「……なんだ貴様は」
「例の問題児か」
カリンの剣を踏みつけている男がリンドウに視線をやると、もう一人の大将も面倒臭そうに目を細めた。
「どーも」
リンドウは少しだけ背を曲げて形だけの会釈をすると、あっけらかんとした口調で話す。
「女は強ければ強いほど良いでしょう。男を跳ね返すぐらいでないと、こっちもやり甲斐がない。俺はただ奥ゆかしく畏まる女よりは、強気でこちらを蹴倒してくるような女の方が好きっすね」
大将二人は少し毒気を抜かれたように眉をしかめた。
「何を言っているんだこいつは」
「孤児の戯言になど付き合うな。……ともかく小娘、言動には慎むことだな。これくらいで済んで良かったと思え」
剣を踏みつけた大将はカリンにそう言うと、もう一度ぐり、と踵に体重を掛ける。また少し剣が泥にまみれた。
そのまま大将二人は地面にへたり込むカリンを睨みつけると、宮殿の中へと去っていった。
小さくなる二人の男の背を見やってから、リンドウはカリンを見下ろす。
「災難でしたね、姐さん」
手は差し伸べない。
自分の手など借りずとも彼女は自分の力で立ちあがる女性だ。
彼はそう思ったのだが、彼女の細い脚は土に投げられたまま動かない。上半身を支える両手も地に付いたきりで、綺麗に整えられた桃色の爪の隙間には泥が入り込んでいた。顔も依然俯いたまま、一つに結ばれた長い三つ網みが地面に触れてしまっていた。
「もしかして怒ってます? 俺さっきはあんなこと言いましたけど、別に姐さんのことそんな風には」
「別に気にしていない」
彼の言葉を遮るように、項垂れたままのカリンは言った。
「間に入ってくれたことには感謝する……だが……しばらく放って置いてくれ」
彼女はリンドウに顔を見せないようにして立ち上がると、泥に埋もれた剣を拾う。それを大事そうに抱えると、小さな肩を震わせながら彼に背を向け離れていった。
彼女は一度も表情を見せなかった。
だが彼女の口から発せられた、涙に濡れたような湿った声。
その声で彼女の表情を、心中を。想像できてしまった彼は、言葉を返すことができなかった。
彼女が泣いたのは、剣が汚されたからか。
誇りを穢されたからか。
彼が世界で最も美しいと思う女性が穢された。
それは彼にとって、何より耐え難いことだった。
先程のリンドウの言葉に嘘はない。
強い女性が好きだ。
もちろん弱い女性も好きだし、つまるところ女性のことはみな愛しているのだが、しいて言うならば強い女性のことは特別愛している。
それは彼がその女性のさらに上に立つことに快感を覚えていて、その女性が強ければ強いほど支配欲を掻き立てられるからなのだが――
カリンという存在だけは別だった。
彼女だけはいつまでも誇り高く、高潔な女性のままでいなくてはならなかった。
何者にも穢されてはいけない。
誰かの手に届く存在であってはならない。
リンドウ自身が彼女に触れるなどもってのほか。
よって先程の言葉に嘘はない。
彼は彼女が綺麗なままでいて欲しいのだから、『そんな風に』見たことは一度もなかった。
だからこそ。彼は先程の大将二人の行いを見過ごすことができない。カリンに軽蔑の眼を向け、彼女の美しい精神を踏みにじったことは彼の許容範囲を超えていた。
先程の大将二人と同様、彼も非道な行いはする。相手を泣かせる、喚かせる以上のこともする。むしろ女性に対しそれを愉しみで行う辺りはあの二人よりもずっと悪質だと、彼は自覚している。
それでもカリンだけは特別なのだ。
彼はカリンさえ高潔であればそれでいい。
他の女性がどう見下げられ傷付こうが構わない。むしろそれこそが彼自身の愉しみであったし、その方がカリンという気高く美しい存在が際立つとすら思えた。
女性という生き物を愛しているのは間違いないが、カリンだけに対するこの感情を何と呼ぶのか、彼には分からなかった。
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