第百十九話 秘めやかな酒宴
星が瞬いた翌日は風が強いというのは本当らしい。
今日は一日中、風が吹き荒れた。海も荒波だった。
天候の変化を予想し帰国の延期を決めた人間はなかなかに優秀なのだろう。
石を積み上げ造られた頑丈な壁のお陰で、強風が空気を裂く音は室内にそれほど入ってこない。
だが窓から外を見れば相当に荒れているのが分かる。
深夜の暗闇の中、裏庭の木々が騒がしく揺れ動き、落ち葉が激しく舞い上がっている。
主がいなくなった白亜の館の一室。
リンドウはその外界が荒れ狂う様子を眺めながら、一人静かに酒を飲んでいた。
ただ一つ点けたランプの灯を、銀製の盃が反射する。
深い盃の底まで一気にあおろうと少し背中に体重をかければ、ぎし、と椅子が軋む音がした。
元々華奢なのだろう。筋が付きながらもすっきりとした体躯の彼は、口さえ開かなければ絵になる男。
彼は喉にじわりと広がる熱さを最後まで堪能すると、盃から唇を離し、ふっと息を吐いた。
「隣いいかな? リンドウくん」
その声に彼が左方に顔を上げると、ランプの明かりを受け軽やかに光を放つ、美しい金色の髪が目に入った。
「安酒ですよ、イチル様」
「そんなの気にしないよ」
イチルはくすりと笑いながらリンドウの隣の椅子に腰を下ろす。
「盃お持ちしましょうか?」
「いや。どうせリンドウくんは飲んでると思って、もう持ってきちゃった」
イチルの手には硝子製の盃が握られていた。底から口にかけて外側に反るような形の、背の高い盃。硝子は若干薄く透明だが、胴の部分には控えめに金箔が封されている。リンドウの銀盃は彼が錫ノ国から持参したものだが、イチルのそれも同様に持ち込んだもの。主もなかなかお好きらしい、とリンドウは唇の端を上げた。
「どうせならお酒の方も持ってくれば良かったかな」
「いえ、まだ持ち込んでるんで」
イチルが盃を差し出すと、リンドウは慣れた手付きで一升瓶から酒を注ぐ。
リンドウの下には、まだ一本、開封されていない瓶が残っていた。
「足りなくなったら俺が持ってきます」
「ありがとう」
そんな言葉を交わしながら二人は静かに互いの盃の縁を合わせる。
硝子と銀が控えめに高い音を鳴らすと、彼らは同時に盃を傾けた。
流れるような、洗練されたやり取り。
イチルとリンドウは昔から人知れず、深夜にこうやって盃を交わしていた。
最初の一杯をすぐに飲み切ったイチルの盃に、リンドウが再び酒を注ぐ。
「リンドウくんさ、またやったでしょ」
降りかかった声にリンドウが目線を上げると、イチルはただ穏やかに微笑んでいた。
怒った様子もなく、困った様子もなく。
「すいません」
リンドウは硬く冷えた床にかつんと酒瓶を置く。
「いいよ別に。あの人の代わりはいくらでもいるし。エンジュくんから何があったかも聞いたからね」
「兄さんと姐さんには……」
「大丈夫、君がやったとは言ってないよ。そういう約束でしょう?」
盃から口を離したイチルが言った。酒に濡れた唇が綺麗に弧を描く。
「四年も前の話を……ありがとうございます」
リンドウは一度目を細めると、俯くように、イチルに頭を下げた。
――四年前。
エンジュ、カリンと共にリンドウが入軍して、六年が経った頃だ。
当時十七歳だった彼の位は少将。二十二歳のエンジュと、十九歳のカリンの位は中将だった。
彼らの後に出てきたアザミは別として、通例から考えれば三人とも出世している方だった。
しいていえばリンドウだけ少将だったということだが、彼と二人との差は年齢差というわけではなく、普段の素行によるもの。
今より上下関係の厳しかった軍内でも自分を崩さず、軍内ばかりか都下でも頻繁に問題を起こす彼は少し異質な存在だった。
そして彼と同様に異質だったのはカリンだ。
錫ノ国の軍内において、今も昔も女性は彼女一人だった。
軍に入ったばかりの彼女は所詮女と侮れ、馬鹿にされるだけで済んでいた。
だが数年経つにつれ、周囲から向けられる視線は変わっていく。
今も『麗剣』と揶揄されるように、その頃からカリンは容姿端麗で、外見だけなら女性の中でも群を抜くほどの女性らしさを持っていた。
それにもかかわらず、彼女は強かった。とにかく強かった。
自然と注目を浴びるカリンだったが、目下の兵たちが何を思おうと彼女には関係なかった。
女のくせに、と妬み嫉みを買われることがあれば、片っ端から容赦なく叩きのめした。
だがそれも、目下の者が相手ならの話。
にわか雨の降った夏のある日。
カリンは大将二人に呼び出されたのだった。
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