第百十八話 白亜の館にて
錫ノ国側の話が四話続きます。
残酷な表現はかなり控えたつもりですが、これまでの彼らが苦手という方は念のためご注意下さい。
時間を少し戻しまして、第四章開始時点での彼らの様子になります。
冴えた空気が心地良い夜だった。
星明かりを吸い込んだ紺の海に揺られるのは、錫ノ国の軍船が数十隻。
一同が滞在するここ、見晴らしのいい白亜の館は革新派筆頭だったタイラのものだ。
その二階の一室から続く広い露台で、軍服姿の青年はだらしなく柵に寄りかかり外を眺めていた。
耳に流れてくるのは低く甘い歌声。
錫ノ国の人間なら誰でも知っているような一般的な童謡だ。
だがその甘美な歌声は子どもに聞かせるようなものではなく、おそらく大人の女性の方に需要がある。
花街で歌えば人気が出るだろうが、そんなことを自分の主に言えるわけもなく。
まあ言っても本人は許してくれそうだが、別の人にどやされるだろうな、そう考えてリンドウは苦笑した。
下の裏庭で散歩をしていた主が遠ざかっていくのを見やってから、彼は口を開いた。
「しっかし、イチル様の機嫌が直って良かったっすねー」
「そうだな」
椅子に腰かけ書物を開いていたエンジュが答える。
戦を終えた主は相変わらず人前では微笑んでいたが、心中は間違いなく穏やかではなかった。
長年の付き合いだからこそ分かる、彼を取り巻く不穏な空気。それがようやく消えたのはつい昨日のことだ。
主は宮殿によほど帰りたくないらしい。天候の悪化が予想されるために帰国が遅れてしまう旨をエンジュが告げると、彼は久し振りに愛想笑い以外の笑顔を見せた。
「てっきり第二王子を追うもんだと思ってたんすけどね、俺あたりが」
「放置するんだもんなー」と言いながら、リンドウは空を仰ぐ。
母国よりも地上に近い星屑がその存在を主張するように、強く清く輝いていた。
あざといな、と彼は少しだけ眉をひそめる。
「今行ってもどうせ捕まらんし、行き先が知れているからな。お陰で帰郷できるんだから良かっただろう」
エンジュはリンドウを見て静かに話すと、自身の横に視線を落とす。小さな机に置かれているのは簡易な書記道具が一式。開いていた書物はカリンに解読を頼まれていたもので、彼は律義にその内容を砕けた言葉でまとめ、書き付けを作っていた。
「俺たちだけすみませんね、エンジュ兄さん」
今度はリンドウがエンジュに視線を移し、軽快に口を開く。
「いや。……あんまりカリンを怒らせるなよ」
「それはどうでしょー。姐さんを怒らせるのは俺の特技みたいなものなので」
「何が特技ですって?」
先程まではいなかった人物の声にリンドウが振り返ると、室内からカリンが出てきたところだった。
「本当に。イチル様はお前に甘過ぎますわ」
「甘いですよねー。……まー、嫉妬しないで下さいね。カリン姐さん」
「調子に乗るな、馬鹿!」
「カリン。言葉遣い」
からかうリンドウに詰め寄ろうとしたカリンが、エンジュの言葉でぴたりと止まる。
カリンは普段、美しいというにはやや大袈裟過ぎるほどの言葉遣いを心掛けている。
主のため。言葉遣いも動作も上品に。
これが彼女の掲げる標語だった。
言動が乱れた時はエンジュに直してもらうよう、彼女は昔から頼んでいるのだ。
怒りたいのをぐっとこらえるカリンを見て、リンドウは愉快気に口の端を曲げた。
「姐さんはかりかりしてるのが一番似合いますよねー」
そう言って彼がくつくつと笑っていると、露台にもう一人、ずんぐり太った男が入ってきた。
招かれざる客。とはいえ、この屋敷内に関しては三人こそが客なのだが。
「おや。こんなところに三人とも揃って、どうされましたかな?」
口を開いたのはこの館の主。革新派筆頭のタイラだった。
カリンとリンドウがすっと無表情になる。
「これはタイラ様、先日はお疲れ様でございました」
エンジュだけは粗相のないよう立ち上がり一礼した。
「うむ。錫ノ国には助けられましたな。……それにしても」
ちらりとタイラがカリンを見やる。
「イチル殿も勿体ないことをする。このような美人を武人にさせておくとは……ああでも、こうして戦地に持って来れるという点ではむしろ都合が良いのか」
下卑た笑みを浮かべるタイラをカリンは躊躇なく睨みつけた。
「おや失礼。そういえばイチル殿は、異国の男にご執心だったな。可哀想に」
ますます可笑し気に口を歪めるタイラはそのままカリンに近付くと、彼女の顎をくいっと持ち上げる。
「私なら放っておかんがな、お前みたいな上玉は。どうだ、イチル殿など捨てて私のところに来たらどうだ。剣など持たずともよい。下働きが嫌なら適当に生活の世話をしてやろう。生まれが良ければ妾に据えても良かったが、どうやら違うらしいからな」
舐めるようなタイラの視線にカリンは眉を寄せ、目を背ける。
相手は海ノ国の元首になる男。
ここで取り乱してしまっては主の迷惑になると、彼女は必死に我慢していた。
少しの静寂。
彫像のように固まりそれ以上の反応を見せなくなったカリンを面白くないと思ったのか、タイラは手を離す。
「ふん。まあここにいるうちに考えておくとよい。あのような何を考えているか分からない主よりは、よっぽど可愛がってやれると思うがな」
そう言って踵を返すと、男は再びそのだらしのない図体を揺らしながら戻っていった。
カリンは一枚の手巾を静かに取り出すと、今しがた男に触られた顎を拭う。
肌が擦り切れるのではないかと思うほど、執拗に。
それでも汚れは取れないと思ったのか、彼女はその手巾をぐしゃりと握り潰すと、小さく呟いた。
「……身を清めてまいりますわ」
「……ああ」
エンジュが返事をすると、カリンは身体を縮めるようにして露台から出て行く。
その小さくなる彼女の背中を、リンドウは何も言わずただじっと眺めていた。
翌日の、霧がかった早朝。
花街の一軒の茶屋の裏で、タイラの死体が発見された。
鮮やかな手口で、証拠は残っていなかった。
彼は恨みを買いやすい性格だったことから革新派の中でも騒ぎにはならず、犯人は分からぬまま。
不気味なほどあっさりと事件は終わった。
更新時間が遅くなり申し訳ございません。
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