第百十六話 国境越え 一
アサヒは疲れていた。
ここひと月の間で。北の果てまで行き、休む間もなく最短で都に戻り、そのまま戦を戦い抜いたのだ。
四人の中で誰よりも消耗していたのだから、たった一日朝が遅くなっても仕方のないことだった。
鉛のように重たい身体。
木漏れ日が顔をかすめ薄っすら意識を取り戻しかけた頭に、聞き慣れた声が響く。
「ちょっと待って、ケイ! やめて!」
「やだ、ハツメお姉ちゃん。ここまできてやめるんですか?」
ハツメを軽く咎めるような、艶がかったケイの声。
「せっかくなんですから。最後まで二人でしちゃいましょうよ。ね?」
そのどこか甘い響きに一気に目が覚めたアサヒはがばっと身体を起こす。
居心地悪い心臓を押さえながら会話の方を見やれば、
木の幹に背を付けて座りこむハツメにケイが全身で詰め寄り、化粧を施していた。
急に起き上がったアサヒに驚いたハツメが目を見開く。
「お、おはよう。……アサヒ」
「……おはよう」
どうやら自分で思っている以上に疲れているらしい。
アサヒは片手で目を覆うと、深く長く溜息を吐いた。
「終わってから起こそうと思ったのだがな」
一足先に起きていたトウヤはハツメとケイのやり取りを見ていたようだ。
彼はアサヒの反応から何となく察したらしい。意味深な表情でにやりと笑った。
「ほら、じっとしてて下さい。顔の印象は化粧で変わるんです。万が一の時、国境で顔を覚えられても平気なように」
ハツメの目の際に紅をのせる準備をしながら、ケイはアサヒを見る。
「そうだアサヒさん。トウヤさんにも言ったんですけど、関所は女二人で越えましょう」
「そうするとその荷台には俺とトウヤが入るのか」
アサヒが指差す先には古びた小さな荷台が一つ。
昨日小さな村を見つけたときに、当面の食料や着替えと共にケイが調達してくれたものだ。
「男女で三人以上ってどう考えても怪しいですからね。神宝一行だと思って下さい、と言ってるようなものですから、この荷台に二人くらい入ればいいんじゃないでしょうか」
村から戻ったケイはそんなことを言いながら旅荷を整理していた。
アサヒはその様子を見て、旅芸者だけに旅慣れしているな、と思ったものだ。
そうでなくても、痕跡を残したくない三人に代わって色々と動いてくれるケイの存在はありがたかった。
そんな旅芸者ははきはきと話を続ける。
「男だと警戒されますしね。それに。この狭い荷台にハツメお姉ちゃんとどっちが乗るんですか」
ケイがちらりとトウヤを見ると、アサヒが即座に首を振る。
「じゃあアサヒさん?」
少し面白そうな目でアサヒを見るケイに、アサヒは苦々しく口を開いた。
「いや……もういい。男二人で乗る」
「でしょう。私だってハツメお姉ちゃんと乗りたいけど我慢するんです。どうか殿方二人で、すし詰めになって下さい」
口を動かしながらもケイは着々とハツメの化粧を進めていた。
ケイは既に自分の化粧を済ませていたようだ。というより、これまでケイがしっかりと化粧を落としたところを見たことがない。薄くても必ず付けるようにしているのは芸者のこだわりだそうで、海ノ国を出る前から化粧道具は完璧に持ってきていたあたりは流石だった。
「それで、本当に大丈夫なんだろうな。気付かれた時点で飛び出して交戦するぞ」
「大丈夫です。まぁそれでも突破できることに違いはないんですけど、追われることを考えると穏便にいきたいじゃないですか。万が一ばれたらそのときはお願いしますね」
秘策があるので大丈夫だと思いますけど、とケイは悪戯っぽく目を細める。
「はい、できた。ハツメお姉ちゃん可愛いですよ」
ケイがハツメの唇から筆を離すと、そこには春色の紅に彩られた可愛らしいハツメの姿があった。
薄付きの白粉に淡い桃色の頬紅。二重に引かれた同系色の紅が彼女の珠のような瞳を控えめに縁取っている。唇の紅もまた絶妙な色合いで、彼女に年相応の色香を与えていた。
一言で表すなら、一足先に咲いた瑞々しい桜の花。
アサヒはただ見惚れた。寝起きの頭も疲れた身体も最早そこにはなく、居心地悪かった心臓は別の意味で駆け足に拍動を刻んでいた。
「愛々しいな、ハツメ嬢。花ノ国のときとはまた違った印象だ」
「もう恥ずかしい……」
トウヤの口が平常な滑らかさでハツメを褒めれば、ハツメは袖で顔を隠そうと身を丸める。
「ああもう。顔隠さないで下さいよ。せっかく力入れたんですから」
ケイがハツメの腕をどけると、彼女の顔が再びあらわになる。
朝の柔らかい陽光を受けたハツメの瞳が、ちらりとアサヒを見た。
同時にトウヤとケイの二人も彼を見やる。
――何かを期待されている。
そう感じたアサヒは口を開きかけたが、うまく言葉にできず再び口を結ぶ。
しかし何も言わないのもと思いまた唇を開く。……が、やはり喉が詰まる。
結果的に小さく口をぱくぱくさせるアサヒに、ハツメも恥ずかしさが増したのか目を逸らした。
「あ。どうしよう、面白い」
「俺は山ノ国に帰りたいがな」
可笑しげにケイが口角を上げると、トウヤは冗談混じりに溜息を吐く。
春がまた一歩近付いた、温い朝だった。
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