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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第四章 錫ノ国編
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第百十五話 無人の野営地

 ケイの言っていた通り、川沿いの森で一夜明かしてからは強風の日が続いた。


 吹き荒ぶ風を身体の真正面に向けながらも四人は進む。

 それぞれ顔を逸らしたり、腕で庇いながら地面を踏みしめる。


 ここ近辺では唯一大河に架かる橋に、錫ノ国は野営地をつくっていた。

 掲げられた濃赤の旗が風で乱れ舞い、目まぐるしく形を変えている。


 野営地の横から見て、天幕が六つほど。

 遠目でもその規模の大きさが分かった。交通の要なのだから当然だ。


 だがその割に、人が見当たらない。強風のせいだろうか。

 四人は心の片隅に違和感を覚えながら野営地に近付く。


 風の音が凄まじく、隣にいても声を張らないと聞こえないということもあった。

 向こうの音が分からないのだ。

 音がしているのかどうかすらも。

 そのため、やっとの思いで野営地に辿り着いた四人はそこでようやく察知した。


 その異常な気配のなさは、暴風のせいではなかった。


「……誰もいないな」


 天幕の中を覗きながらアサヒが呟く。


「幸運というわけでもなさそうだ」


 外にいるトウヤが足元を見やると、黒く固まった血痕が地面に染み付いていた。

 付いたばかりのものではない。詳しく観察すると、おそらく数日から一週間前のどこかで付いたものではないか、という結論に至った。


 というのも、戦のあった前日は雨。

 今もこうして残っているということは、少なくとも戦の後でこの血は流されたことに違いないからだ。


「私たちより先に錫ノ国に行った人がいるってことかしら?」


「いや……逆ですね」


 辺りを見渡し顔を曇らせるハツメに、ケイが答える。

 ケイは一つの大きな血痕の前でしゃがむと、巡らせた考えを三人に話し出した。

 風に負けないように高い声を張り上げる。


「この血痕を残した人。斬られた後ここに倒れて、這いつくばって逃げたんでしょうね。で、逃げた先なんですけど」


 ケイは四人が今しがた来た道を指差す。

 土の上にはずりずりと身体を引きずったような血の跡が残っていた。


「海ノ国の方に逃げてます。無意識だったとしても、こっちに逃げたということは」


「相手は錫ノ国側から来たということか」


「錫ノ国かは分かりませんけどね。大河から峠までにはまだ海ノ国の村がありますので」


 アサヒの言葉にケイが返す。


「こういった跡、他にもいくつかあるのでそうだと思うんです」


「……凄い。ありがとう、ケイ」


「いいんです、ハツメお姉ちゃん。これくらいしかお役に立てませんから」


 ハツメがケイに礼を言うと、ケイは風の当たる顔を袖で庇いながら愛想良く笑った。


 アサヒはいくつかの血痕を眺めながら口を開く。


「ここを抜けたという相手は。俺たちとは逆方向なら、どこかですれ違ったんだろうか」


「そうだな。森の中だったし、追っ手をまくために蛇行したからな。気付かなかったのかもしれぬ」


 トウヤはアサヒにそう答えると、空を見上げた。


「強風が雨雲を運んできたようだ。もうすぐ降るぞ、早く先を行った方がいい」


「そうね。ここで取られる時間がなくなったのだし」


 ハツメも頷けば、再び四人は歩き出す。


 いくつかの天幕を過ぎれば、大河に架かる橋があった。

 花ノ国の橋とは異なり、白い石造りの橋。おそらく錫ノ国が造ったのだろう。

 白い石橋へと足を踏み入れ、四人はそれぞれ渡り始める。

 流れる大河が進む方向を逆にするかのように荒れ狂っていた。




 三人の後に続いたケイは一度だけ立ち止まると、無人の野営地を振り返った。


 広い野営地の割には血痕のある位置が固まっている。


 ケイが頭に浮かべたのは、錫ノ国の兵士たちが一人を取り囲む構図。

 その構図が正しければ、圧倒数の敵兵に応戦し、野営地を丸々撤退させたその一人は相当の手練れだ。


 錫ノ国の軍でいえば、それこそ中将……いや、大将格。

 そんな人物が、果敢にも野営地に飛び込んで海ノ都へと急ぐ理由とは何だったのだろうか。


「……まさかね。まぁ、急ぐことには変わりないんだけど」


 ケイのその小さな呟きは、身を裂くような強風の中へと消えていった。

お読み頂きありがとうございます。

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