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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第三章 海ノ国編
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閑話 第三王子と傘持ち係 二

 彼女の姿を目に映したミヅハが端正な顔をくしゃりと歪ませた。


「ルリ……!」


 彼は艶のある髪を揺らして急ぎ地下へ降りる。

 ルリの隣にすとんと降り立てば、はやる気持ちを抑え、まずは砦の扉を閉めようと手を伸ばした。


 背伸びをし石の扉に腕を上げる少年の後ろから、ルリもまた手を掲げる。

 ミヅハの背はルリよりも低く、ちょうど彼女の顎の位置にミヅハの頭があった。

 ルリが並んだ四本の腕を見ると、普段あまり鍛えない少年の腕は細く、女子のルリと同じほど。

 こんな小さな身体でここまで来たのかと、ルリの心が絞めつけられた。


 扉を閉めると砦は再び薄闇に覆われる。

 今にも消えそうなランプの灯が照らす中、二人は正面から向き合った。


「ミヅハ様……どうして……」


「やっぱり駄目だ。ここで死ぬなんて僕が許さない」


 揺るぎのない澄んだ瞳。ミヅハの真っ直ぐな視線がルリを射抜く。


「僕と一緒に来いなんて言わない。僕はあいつらみたいにお前に執着なんかしない。でも今は。今だけはここを出よう」


 強い声だった。少年はルリの腕をはしと掴み、自身の心からの望みを伝える。


「生きて。……僕と一緒じゃなくていいから。生きて。ルリ」


 ルリの目の奥が熱くなる。

 こみ上げる涙を我慢できず、紅に囲まれた目の端からぽろぽろと雫がこぼれた。


 ミヅハが自分を大事にしてくれているのは彼女にだって分かっていた。だからこそ自分がミヅハと共に錫ノ国に行けば、それこそ彼の足枷になる。弱みになって、いつか自分の存在が彼の首を絞めることになる。彼女はそう考えていた。


 だが、ミヅハがここまで来てしまえばもう意味はない。

 錫ノ国の保護を自ら捨てて、戦場まで来てしまったのだから。


 ハクジの民として残りたい気持ちは確かにあった。

 それでも今は、ミヅハの気持ちに応えないわけにはいかない。応えねばならない。

 ルリもまた、ミヅハにだけは生きていて欲しいのだから。


「ミヅハ様……。ご一緒します。ミヅハ様こそ、早くここから出なければ。巻き込まれてしまいます」


 傷付けてごめんなさい。


 純白の衣を纏った彼女が袖で涙を拭いながらそう言うと、ミヅハは無言でルリの腕を寄せ、自身の手巾を差し出した。ルリが自身の袖を見れば、白地に紅が滲んでしまっていた。




 入ってきた裏口はもう使えないと、ミヅハは言った。都を取り囲む兵たちに見られないように入ったは良いものの、これだけの人数が逃げ出せる様子ではないらしい。他の裏口を使うか、表から出るか。いずれにしても動かなければならなかった。


 周囲の女子供にもそれを伝え、その場にいた全員が動き出すのを見届けた二人。

 どちらともなく、手を繋ぎ走り出す。

 安全な出口などない。それでも二人は互いを生かすために必死だった。


 混乱の中やっとの思いで大きい通路に出れば、見知った人物と鉢合わせた。


 ミヅハが先日教えられたばかりの、異腹の兄。

 同じく砦からの脱出を図っていたアサヒだった。






 戦場から抜け出しアサヒと別れた二人はそのまま都を出た。


 錫ノ国の外套を羽織りながら森に紛れるように半日歩き通すと、空に伸びる枝葉の向こうに細く上がる煙を見つけた。慎重に近付けば、それは民家から出る炊事の煙のようだった。


「……村だね」


 ルリよりも二歩ほど先に歩いていたミヅハがぽつりと呟く。


「ルリ。僕はこれから錫ノ国に行くよ。お前はどうする?」


 彼はルリの方を振り返ると、穏やかに問いかけた。


「砦で話した通り、僕はお前に執着しない。お前が海ノ国で生きたいならそうすればいいし、ここでなくたって、行きたいところに行けばいい。でも海ノ神の元に行くのは許さないよ」


 死ぬのだけは駄目だと、少年は言う。


 優しい表情だ。いつものような覇気があまり感じられないのは、日差しを浴び続け疲れたからか。今後について深く悩んだからか。いずれにせよ、自分などのために申し訳ないとルリは一度視線を落とす。


 今度は考える時間があった。ミヅハがそれを与えてくれた。

 だからここは、もう少し彼に甘えてみたいと彼女は思った。


「ミヅハ様。執着しないと言いますが、私がミヅハ様の知らないところで生きていくとして、寂しいと思って下さいますか? 出来ることなら一緒にいたいと思って下さるのでしょうか?」


「そりゃあ……一緒にいれるなら、そうしたいけど」


 でも縛り付けるのは嫌なんだよ、と少年は話す。


 執着も何も。こんな庶民に選択肢を与えてくれる王族がいるのか。


 目の前で口をすぼめる誠実な少年が愛おしくなって、ルリはたおやかに微笑んだ。


「ミヅハ様。ミヅハ様のそれは執着ではないです。それに、私もミヅハ様と一緒にいたい。……お互いが想い合っているなら、むしろ少しくらい縛り付けて下さった方がわたしは嬉しいです」


「……は? ……お互いが何だって?」


 数瞬固まったミヅハは軽く眉を寄せると、首を傾ける。


「え? ……私の勘違いなら申し訳ありません! こんな庶民が、掃除婦風情が何を言って……」


「ちょっと! 庶民とか掃除婦とか言うのやめて! ……僕がただの庶民をわざわざ助けるわけないだろ。それにお前はもう掃除婦じゃないし」


「では、何になれば良いのでしょう?」


「……本当に僕に付いて来てくれるの?」


「はい。どこまでも。いつまでも」


 ルリがミヅハを真っ直ぐ見つめれば、彼は視線を斜め下に逸らし、小さな口を開いた。


「……傘持ち係。しばらく僕の傘持ち係になって」


 愛想なく言い放つミヅハに、ルリは眉を下げる。


「それでは前と変わらないのでは……」


「なに? 不満なの?」


「滅相もありません! わたしは、ミヅハ様のお側にいられれば何でもいいのです」


「そう。『何でもいい』ね。その言葉忘れないでね」


 ミヅハはそれだけ言うと、ルリを置いてさっさと先を行ってしまった。


 最後の意味だけは分からなかったが、少なくとも一緒にいることはできるのだ。

 彼女は頬を綻ばせると、早足で歩く彼の後を、軽い足取りで追いかけた。

お読み頂きありがとうございます。

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