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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第三章 海ノ国編
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閑話 第三王子と傘持ち係 一

普段より長くなりましたので二つに分けました。

第三章で書ききれなかったミヅハとルリの話になります。

「イチルがあの女の絡繰人形だとすれば、僕は鑑賞人形なんだよね」


 いつだったか、ミヅハがルリに話したことだ。


 幼少期から父親に似ていたミヅハは甘やかされて育った。

 母親であるクロユリは愛する夫に似た息子を蝶よ花よと可愛がり、籠の中の鳥のように扱った。


 煌びやかな衣服を纏い母親を楽しませるだけで、何をするわけでも、何ができるわけでもない自分。


 彼が幸運にもそれに気付けたのは彼とは正反対に育てられた、万能な兄のお陰だった。

 クロユリはミヅハとイチルをあまり接触させなかったが、黙っていても何でもできる兄の姿は目に入る。

 自分と比べ兄が優遇されていないのも分かったが、そこに優越感は感じられなかった。

 ただこのままでは、自分こそが必要のない人間になると彼は思った。


 そう思ったときから、自分を愛玩物にしか見ない母親は彼の中では『あの女』だ。


 着替えや食事すら自分でさせてもらえない生活から脱したのは彼が八つのとき。

 母親に隠れ一人立ちの努力を続けた彼は、国王である父親に神宝(かんだから)のことをちらつかせ、母親には父のようになるためと偽って学術院への留学の許可を得た。

 その頃には理由あって既に四神信仰に対し興味はもってはいたものの、海ノ国へ渡った理由は全て嘘。

 優秀な兄の言うとおりこれは『逃げ』だと、ミヅハにも分かっていた。


 実際ミヅハが海ノ国に来た当初は最低限のことしか出来なかった。それこそ、物心ついた子供が最初に覚えることのような。

 そんな彼だったが、勉強家で、人に物を頼むということを絶対にしなかった。

 そして自分に近付く全ての人を拒絶していた。皆、自分に優しくし、甘やかしてくるから。


 そんなミヅハに根気強く付き合い、心を開かせたのがルリだ。

 一介の掃除婦に過ぎない彼女がミヅハと知り合い、彼にとって欠かせない存在になったのは何か特別なことがあったわけではない。単に成り行きだ。だがその理由がなくとも一緒にいる時間こそが、ミヅハには心地よかった。特別だった。


 だからミヅハはルリを目指す。


 これからは一緒にいなくてもいい。ただ無事であればそれでいいと頭で反芻しながら、彼は戦中の海ノ都シラズメの裏道を駆け上がっていた。






 一方で、籠城戦が始まったハクジの砦。


 民族衣装に身を包み、顔にも白粉(おしろい)と紅を塗ったルリは、窓もない通路の端で他の女子供と固まっていた。度々大きくなる怒号に一同は身をすくませる。


 彼女だけではなく、周囲も皆ハクジの民の出で立ちをしていた。最後のときは民族の誇りを守って迎えたい。その思いがあったからだが、希望を捨てたわけではなかった。


 彼女たちが通路に固まっている理由は、ここに一つ砦の裏口があるからだ。都が包囲されているのは間違いないようだが、仮に砦に敵兵が侵入した際、最後の望みとして裏口を開け、女子供を逃がす算段だった。


 外の熱気が砦の端まで伝わってくる。今日は日差しの強い日だ。


 ミヅハは大丈夫だろうか。無事に母国に保護されたのだろうか。


 保護されていなかったら自分が来た意味が薄れてしまう。

 ミヅハの生い立ちを聞くに、命の心配はないだろう。


 自分の生に彩りを添えてくれた彼が無事であったなら、自分はこの故郷でその生を終えてもいいと、ルリは本気で思っていた。


 ただ一つだけ後悔があるとすれば、別れ際に彼を傷付けてしまったこと。

 どんなに感情的になっても言ってはいけないことだったと、ルリは罪悪感で胸が潰れる思いだった。






「ルリ。僕と一緒に来てよ」


 大粒の雨が地面を叩く真夜中、ルリの小さな借家に少年は来た。

 手にもつ傘をさしてきたのか分からないほど、全身が濡れている。綺麗な黒髪は肌に張り付き、少年は絶えず白い息を吐き出している。走ってきたのだ、自分のために。

 それだけでルリは泣きそうだった。


 戦の気配は彼女も感じていた。もしかしたらミヅハがここを訪れるかもしれないことも予想していた。だが心の準備は、どれほど時間が与えられてもできるものではなかった。


「ミヅハ様……」


「イチルはきっと、ハクジの民を滅ぼす気だ。あいつなら一人も残さない」


 嘘ではないと、ミヅハの目がそう語っていた。彼の端正な顔立ちには悲愴の色が差している。


 どうして、とルリは思わず呟いた。


「反乱軍なんか匿うからだよ。力に唆されて、伝統を捨てて。錫ノ国に関わるからそうなるんだ」


 時間がないのだろう。少年はいつになく早口で、感情的にルリに投げかける。


 自分がミヅハと共に行く。それはできないことだと、このとき改めてルリは思った。


 その理由のほとんどは彼のためだったが、そう話せなかったのはミヅハの誇りを守るためと、彼女自身にもハクジの民としての誇りがあったため。戦を前にして、明日には失われるかもしれない民族の誇りを捨てることはできなかった。


 答えないルリにしびれを切らしたミヅハが声を荒げる。


「一緒に来てよ! お前の素性を隠せばまだ……」


 ルリに綺麗な言葉を紡ぐ余裕はなかった。

 胸に溜まった哀しみを吐きだすように、彼女もまた声を張り上げた。


「ミヅハ様だって! 錫ノ国の方ではないですか……! 結局錫ノ国に行くのでしょう!?」


 ルリはミヅハからさっと顔を逸らした。

 顔は向けられない。自分で言った言葉の意味は良く分かっている。

 きっと彼は今、傷付いた顔をしている。


「私はハクジの民として残ります。故郷の砦で生を終えます。……行かせて下さい、ミヅハ様」


「……勝手に行けよ。……そもそも、僕に許しを請うような関係じゃないだろ」


 小さく震えた、泣きそうな少年の声だった。


「……ごめんなさい」


 水を張った器を引っ繰り返したような大雨。小さな借家の軒先で、空には返らない大きな雨粒が地面を叩いていた。






 突如、大きくなった怒号に悲鳴が響く。

 ミヅハとの別れを思い返していたルリは、ようやく今が戦中だったと我に返る。


 砦の正面が突破されたのだろうか、裏口を開けるべきかどうかと周囲の大人たちがざわめきだす。


 もう一度襲い来る怒号。

 人々が冷静さを失いかけていたそのときだった。


 三回、裏口が叩かれた。


「こんなときに一体誰が……まさか錫ノ国……?」


 隣の女性が呟く。

 もう一度響く、入砦を望む外界からの合図。


 くぐもった声が聞こえる。

 ルリ、と名前を呼ばれたような気がした。


「……ミヅハ様!?」


 ちょっとあなた、と隣の女性が制止する声を振り切ってルリは砦への扉を開いた。


 薄暗かった地下に一瞬にして白光が降り注ぐ。

 ルリが懸命に目を凝らし外界を見上げると、眩しい陽光を背負った少年が真っ直ぐに彼女を見下ろしていた。

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