第百十三話 冬を耐え、春に芽吹く
錫ノ国の包囲陣を突破した四人は深い森へ入り、一日歩き通した。
追手も振り切り、それぞれの顔には安堵の色が戻りつつある。
天に向かい伸びた木々の隙間から日光が射している。
天宝珠を授かってからその扱いについてずっと考えていたハツメは、一度頭上を見やりその顔に光を浴びると、決意を固めた。
アサヒ、と前を歩く彼を呼ぶ。
「どうしたハツメ」
「私。アサヒに天宝珠を使いたいの」
彼女は振り向いたアサヒの両手を取り、柔らかく握った。
彼の手は少し節張っていて、ハツメの小さい手には余る大きさだった。ハツメは花弁を広げるように優しく彼の温かい手を開き、手のひらを眺める。
長時間剣を握り続けた彼の手のひらは皮が破れていた。手の甲は白磁のような白さだが、内側は黒くただれている。これは山ノ国で天剣を使った代償だった。
「私のために傷付いた手のひらだから、私が治したいの」
アサヒを見上げてハツメが唇を開くと、彼は柔らかく目を細めた。少しだけ眉を寄せたのは、こみ上げた熱いものを我慢したため。
「ハツメの好きにして欲しい」
都で、迷いがなくなったと話したハツメ。自分の愛する女性は神宝を背負う者としての苦悩を克服したのだと、アサヒは彼女を眩しい存在に思った。
穏やかなアサヒの表情を見て、ハツメは右手で首飾りを外す。天宝珠の白い玉が日の光の下でゆらりと動いた。彼女は一度その紐から垂れ下がる玉を見つめると、アサヒの手のひらに視線を移す。左手はアサヒの手に添えたまま。
彼女は紐を振り、天宝珠を揺り動かした。
きらめく細かな白光の粒がアサヒの手に降りかかる。光の粒は彼の手にのると次第に集まり、水滴を形づくっていく。透き通った白い滴たちはアサヒの手を潤すように包み込むと、徐々に彼の手に染みていく。全ての白光が消え滴もなくなった頃には、彼の手のひらはかつてと同じ白磁の白さを取り戻していた。
「……治った」
「ありがとう、ハツメ」
ほっとしたように瞼を伏せたハツメの左手を今度はアサヒの手が包み込む。春に向け芽生えを始める種をそっと慈しむかのように彼女の小さな手を握る。彼は同じ体温を感じるとハツメの左手を離し、今度は彼女の右手に手を伸ばした。
小さく握られた拳を解くようにして首飾りを掬い上げると、両手を使って彼女の首に優しく掛け直す。手を離す際に、少しだけ天宝珠に触れてみた。白い玉を指先でそっと撫でると、胸に海が満ちるような錯覚がした。
二人の邪魔はするまいと日にまどろんでいた木々たちが再び囁きだす。
風に揺られざわざわと動く森にアサヒとハツメも意識を戻すと、がさり、四人の横から人影が現れた。
「……神宝の娘と一緒だったのか」
そう呟いて姿を見せたのはカナト。都を駆け抜け戦ってきた彼もまた、傷を負い、返り血を浴び身体を赤く染め上げている。少し疲れたような表情のカナトだが、アサヒはもう彼に手を差し伸べることはできなかった。
四人に追い付いたのはカナトだけではない。カナトの後ろには数人の男。アサヒがハクジの砦で見た青年の姿もあった。砦での戦いから逃げ延びたのか、とアサヒは彼らを見やった後で、再びカナトと視線を合わせる。
「知られたら利用されるかと思ってな。実際隠していて正解だったと思う」
咎めるようなアサヒの目に、カナトは辛そうに顔を歪ませた。
「そう言われても仕方ない。……だが!」
カナトがざっと跪く。後ろの男たちも続くように同様の姿勢をとると、アサヒに頭を垂れた。
「ヒダカ王子! どうか我々と来て頂けませんか。……セイが、貴方様がヒダカ王子だと! 反乱軍の将に据えろと申したのです! 生きておられたのですね、アカネ様の忘れ形見……!」
ありったけの誠意を込めて声を張るカナト。彼から一心に向けられた言葉にアサヒは目を逸らす。
「そのセイはどうしたんだ」
「私たちを逃がして砦に残りました。……此度の責任を取ると申しておりました」
そうか、とアサヒは呟いた。アサヒにとっては怖れしか抱けない印象の男だったが、カナトにとってはまた違った存在だったに違いない。それはカナトの声音からも明らかだった。
カナトたちはセイに反乱軍を託されたのだろう。彼らはその意思を継ぎ、自ら滾らせた想いと共にここに来た。
アサヒが口を開く。
「俺は反乱軍には加担しない。それに、神宝一行の噂を知っているだろう。第一王子は俺とハツメを狙っている。俺を取り込んだらただじゃ済まないぞ」
「……だからこそ! 利害が一致いたします! 命を狙われる身なのは一緒。共に向かい王族を打ち倒せば、残るは安寧ではございませんか」
カナトの言うそれは、谷ノ国に帰りたいアサヒにとっての安寧とは程遠かった。
錫ノ国に縛り付けられる未来を彼は望まない。
「断る。それに俺はヒダカじゃない」
もう話せることはない。アサヒはハツメたち三人を見やり、行こうと声を掛ける。
歩みを始め離れていくアサヒにカナトが悲壮な声で縋る。
「ヒダカ王子! ……ヒダカ王子!」
彼は小さくなっていくアサヒの背中を追い掛ける。
――遠い。
カナトは一度強く口を引き結ぶと、友の名を呼んだ。
「……アサヒ!」
ぴたり、とアサヒが止まる。
彼に追い付いたカナトはアサヒの横に立つと、一枚の書き付けを差し出した。
「セイ様にはお前を捕えろと言われたが……俺にはできん。だからせめてこの紙を。俺たちが今後拠点としてまわる地が書かれている。受け取るだけでも……頼む、アサヒ」
くしゃりと顔を歪ませながらも自分を真っ直ぐに見つめるカナト。
アサヒはその目を見て、こいつはこういう男だったな、と彼と過ごした海ノ国でのことを思い出した。
情にほだされるとはこのことか。アサヒもまた、友の存在を捨て切ることはできなかった。
「友人として受け取っておく」
ただそれだけ言って、カナトの手から紙を抜き取った。
「カナト。……元気で」
アサヒが自分より低い身長の彼を見下ろせば、彼はぐっと目を閉じた。
アサヒは再び森の中を歩き出す。
隣に追い付き、彼の腕をそっと掴むのはハツメ。
トウヤは二人の背を見守るように付いて行き、さらにその後ろには三人の様子を窺うケイがいる。
移り変わる四季の中、人知れず営みを続ける木々。
冬を耐えた固い冬芽は四人が錫ノ国に着く頃には一斉に芽吹き、新しい葉や花となるだろう。
大地に根を張る自然は射し込む日光を浴びながら、人よりも先に春へと立ちあがる準備を始めていた。
お読み頂きありがとうございます。
こちらで第三章 海ノ国編は終了になります。
冗長かつ暗めの雰囲気で進んだ海ノ国でしたが、お付き合い頂きありがとうございました。
改めまして、読者様には心より感謝申し上げます。
今後とも邁進してまいりますので、完結まであともう少しお付き合い頂ければ幸いです。




