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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第三章 海ノ国編
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第百十二話 戦の終焉

いつもより残酷描写が濃くなっております。

苦手な方はご注意下さい。

 学術院の書庫で一人、大将のカリンは空中回廊に佇んでいた。

 柵の上に腰を掛け、足を宙に投げ出している。空中回廊は書庫の四階同士を繋いでいるため落ちたらただでは済まないのだが、彼女の身体能力を考えればそれは要らぬ心配だろう。


 今、カリンは本棚から見つけた一冊の書物を読んでいる。その内容は古来の軍法に関するもの。接収が始まってからしばらく開いているこの書物だが、中身はいまいち頭に入っていなかった。そもそも分からない言い回しが多すぎるし、熟語の意味も自分の見解で合っているのか自信が無い。


「……帰ったらエンジュにでも聞こうかしら」


 カリンはあまり勉学が得意な方ではなかった。


「そこの貴方」


「はっ!」


「この本も接収のものに加えて下さいませ」


 通りすがりの一般兵にその一冊を渡すと、カリンは息を吐いた。少々退屈だ。勉学が得意でないカリンからすれば、満足に読めもしない書物に囲まれているよりは戦場で暴れていたい。それは彼女が敬愛する主もよく分かっていることだろう。

 それでも主が自分を連れて行かなかった理由は、彼女にも何となく分かっていた。


「気を遣って頂かなくともよろしいですのに……イチル様」


 視線を落とした憂い顔のカリンは様になる。

 普段と違うたおやかな上司の姿は非常に貴重だと周囲の部下がちらちらと見始めた――が、そんな貴重な時間はあっという間に終わった。


「カ……カリン様」


 おずおずと話しかけてきたのは一人の少将。位持ちにしては珍しい文官肌の、カリンと同年代の青年だ。


「どうかなさって?」


 相手の顔を見ずに彼女は答えると、少将は心底言い難そうに口を開いた。


「あの、接収の書物なのですが……地下を調べさせたところ神宝(かんだから)に関する書物が、見つかったには見つかったのですが……」


 怯えたように報告する少将をカリンが見やると、相手はびくりと身体を震わせた。彼女は顎を軽く上げ続きを促す。


「同じ本棚からごっそりと持ち出された形跡がございます。恐らくは、特に重要な書物が抜き取られたのではないかと……」


「あら」


 その少将の言葉を聞いたカリンは、柵の上でくるりと身体の向きを反転させて空中回廊に降り立つ。濃赤の外套がふわりと書庫の空を舞うと、彼女のぴんと伸びた美しい背筋に沿って再び収まった。


「伝令兵を使ってイチル様にご報告しますわ。その間に残った書物から大体どういうものが抜き取られたのか推測しなさい。……それと」


 顔を青ざめ身を縮める少将にカリンが目を細めると、彼は泣きそうな顔になる。彼は任務の失態で居場所――だけならまだしも、命を失った仲間を何人か知っていた。処罰を恐れ震える青年の様子を見て、カリンははぁ、と溜息を吐く。


「貴方も武官ならその弱々しい態度をやめなさい。貴方の失態じゃないでしょうに。次からは堂々と報告して下さいませ」


「は……?」


「聞こえませんでしたの? 武官なら堂々たれ、と言っていますのよ。……ほら、さっさと行く!」


 カリンが両手を叩き乾いた音を出すと、少将は戸惑いながらも威勢よく返事をし、先程のカリンの指示をこなしに戻っていった。


 カリンは空中回廊から下を見下ろす。接収作業はあと少しか。主の予想通りなのだろうが、自分がハクジの砦に向かう時間は残らなそうだなと、彼女は複雑な思いで眉を寄せた。




 その頃、ハクジの砦では錫ノ国による制圧が完了し、残ったハクジの民及び反乱軍は皆捕縛されていた。砦で最も大きい広場では、錫ノ国の一般兵が広場の中心を避けるように制圧後の処理を静かに行っている。彼らが時折視線をやるその中心ではこの戦の将である第一王子とその腹心の部下である二人が、捕らえられた一人と対峙していた。


「麗剣がおらんな」


 生身と義手の両手首、そして二の腕を後ろ手に括られ正座させられている反乱軍の現指導者は、自身を見下す面々を見やって口を開く。


「カリン姐さん? ……兄さん、この男誰ですか」


 セイが発した『麗剣』という言葉。いきなりカリンの二つ名を持ち出してきた男にリンドウが眉をひそめる。


「第二夫人派を率いていた人物の一人だ。名前はセイだったか。昔カリンが肘から先を取ってな。お前もその場にいただろう」


「……ああ。あの時の」


 エンジュの答えにリンドウはその出来事を思い出したらしい。くつくつと喉の奥を鳴らし、嫌な笑みを浮かべた。


 セイが肘から先を無くしたのは大した理由ではない。セイは昔イチルに不敬を働いた――というより失言をしたことがあり、その場に居合わせたカリンによって腕を切られていた。


 失言の内容は誰も覚えていない。セイからすればクロユリに対する苛立ちをイチルへの嫌味という形で彼に軽くぶつけただけだったのだが、そのときのセイの言葉は剣を抜いたカリンですら忘れているだろう。イチルのことになると彼女は頭に血が上りやすい。その性格は今もだが、昔はさらに酷かった。


「あの逆上したカリン姐さん、最高だったなー」


 リンドウが至極愉しげに目を細めると、セイは忌々しく地面に唾を吐き、イチルを見やる。


「主がこうだと部下もそれに似るとみえる。お前の執着していた男、まさかヒダカ王子だったとはな。まこと、狂った一族だ」


「……その汚い口でヒダカの名前を呼ばないでくれる」


 イチルが面白くない顔でセイの方へと一歩踏み出した。


 あともう一歩。イチルを自身に近付けるため、セイは挑発を続ける。


「ヒダカの何がそんなに良いのだ。顔か、異能の力か。確かに顔なら綺麗ではあった」


 そう言って、嘲るように口を歪ませた。


 セイの言葉に、イチルの美しい眉がぴくりと動く。

 苛立ちを見せ始めたイチルがまた一歩足を地面に差し出したとき。セイが動いた。


 金属同士の擦れる高い音と共に、セイの義手から仕込み武器が飛び出す。腕に沿って伸びた刃がセイの手首を縛る縄を切ると、彼は二の腕の縄も器用に解く。


 真っ直ぐにイチルへ向かう。機は一度きり。

 その後の体勢が崩れるのも厭わずにセイはイチルの胸目掛け、刃を突いた。


 刹那。その一突きはイチルの胸に届く少し前で止まる。義手から伸びた刃を阻んだのは横から現れた大きな鞘。主を庇うように大剣の鞘を突き入れたのはエンジュだ。

 重量ある大剣を難なく扱った彼は無表情のままセイの刃を義手ごと弾き飛ばした。セイの腕から外された義手は宙を舞い離れていく。


 それと同時に、セイの身体はうつ伏せの状態で地に伏せられた。背に当てられた長い柄が彼の背骨を軋ませ、顔は痛々しく地面に擦り付けられる。

 セイの後頭部を躊躇なく踏みにじるリンドウが不快げに口を開いた。


「あー最悪。ほんと、男は何をやっても見苦しい。カリン姐さんが左腕なら俺が右腕を引き千切ってやろうか。そんでさっさと死ね」


 そう言ってリンドウがセイの身体を突いていた大身槍を彼の右腕に押し付けようとすると、セイの捨て身の奇襲に微塵も動じなかったイチルが穏やかに口を開いた。


「いいよリンドウくん。下がって」


 涼しい顔で頬笑むイチルをリンドウはちらりと見ると、少々渋い顔で主の背後に回った。

 イチルの余裕が気に入らないセイがうつ伏せのまま彼を睨むと、イチルはその視線を受け流すように首を傾けて、地に伏せるセイを見下ろした。


「ヒダカに会ったんだね。ここにいたんだ。ねぇ、何か言ってた?」


 目を艶っぽく光らせ甘い声を出すイチルに、セイは答えなかった。その代わり発したのは別の言葉。最後の望みだった奇襲が失敗した彼は、満面の笑みでイチルを見上げた。


「ヒダカは反乱軍がもらうぞ」


 ――鈍い衝撃音が辺り一帯に響いた。


 同時にセイは横に吹っ飛び、地面に数回転がった。

 先ほどまで彼の頭蓋が位置していた空間から少し上には、しなやかに伸びたイチルの右脚が浮く。


 瞬間的に放たれたイチルの横蹴りは彼の頭を強打し、再び彼を地に伏せた。


 長い沈黙。


 誰一人として口を開くことができない中、ぱち、ぱちと控え目な拍手の音が響く。


 エンジュがその拍手の元をじろりと見る。主の美しく決まった蹴り技に感銘を受けたと言わんばかりに手を叩くのはリンドウ。エンジュの咎める視線に気付いた彼は、にやにやと笑いながらその手をすっと引っ込めた。


「ヒダカは私のものだよ」


 右脚を優雅に下ろしてイチルが唇を開く。彼は悩ましげに左手を頬に添えると、はぁ、と熱く息を漏らした。


「こんな奴らに目を付けられて可哀想なヒダカ。悩んでるんじゃないかな。……私が側にいたら、ヒダカを苦しませることなんかしないのに」


 そう彼は哀れむように言ったかと思うと、今度は慈愛に満ちた表情でふふっ、と笑った。


「ヒダカに会ったら一度綺麗にしてあげよう」


 何を、とは言わなかった。


「……国王よりも酷いな」


 顔をしかめ毒づくセイに向かいながら、イチルが剣を抜く。

 イチルがセイに剣を振り下ろそうとした瞬間。


 広場に伝令兵が飛び込んできた。


「ごっ……ご報告します! 都の包囲網が破られました。谷の娘と山ノ国の御人が逃げたとのことです」


 その場にいた何人かが唾を飲む音がした。


 心臓の鼓動さえ止まりそうな緊迫した空間で、最初に口を開いたのはエンジュだった。


「逃げたのはその二人を含めて何人だ」


「四人です。男が二人、女が二人」


「女が二人?」


「はい、確かに。一人は谷の娘と思われますが、もう一人は少々派手な着物姿で……目撃者曰く芸者ではないかと」


 芸者という言葉を受けて、ぴり、と殺気が走る。


「あーあ。せっかく花街で釘さしてやったのに、あの子供(ガキ)


 殺気立ったリンドウは煩わしそうに、は、と短く息を吐いた。


 イチルは何も言わず、誰の反応にも答えなかった。

 ただ、顔にこそ出してはいないが、彼が纏う雰囲気は明らかに怒気がはらんでいた。


 そんなイチルを見上げて可笑しそうに口の端を上げるセイ。


「残念だったなイチル」


 頭を前に伏せたまま不遜な態度で言葉を吐くセイを、イチルはただ見下ろす。セイの暗く淀んだ目と視線が合うと、彼はその首目掛け、剣を勢い良く振り下ろした。


 堰を切ったように溢れた液体ははじめこそ勢い良く吹き出したが、人の器に入るだけの量に近付くと次第に流れは収まっていく。所詮人の器。あっという間に流れは止まった。


 血潮で濡れていく足元を見つめていたイチルはしばらくすると、その感情を排した顔をゆっくりと上げ、艶やかな唇を開いた。


「ここから先は戦じゃない。相手は剣を捨てた。女子供もいる。……君たちなら、やってくれるよね?」


 そう言って美しい顔で首を傾けるイチルに、エンジュとリンドウは跪く。遅れて周囲の兵たちも慌てたように平伏し始めた。


 広場の中心で一人顔を上げる美貌の青年は、血溜まりの中、無表情で剣を振るう。

 剣に付いた鮮血が宙に赤い円を描く。

 全ての血が地面に落ちると共に、二国間の戦は終わりを告げた。

お読み頂きありがとうございます。

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