第百十話 天宝珠
――海の中、だろうか。
ハツメには自分が今どこにいるのか分からなかった。
感触は水の中。濃い潮の香りが満ちている。
それなのに、先程までの凍える冷たさはない。冷たくもなく、熱くもなく、かといって心地いいとも思わない、ただ水の中にいるという感覚のみ。
一番不思議なのは、自然と呼吸ができているということだ。
ハツメの知る海の情報と、そうでない情報が入り混じっている。
ゆっくりと目を開けてみたが、水は染みず痛みはこなかった。
眼前には澄んだ白が限りなく広がっている。上も下も何もない、白。
「いらっしゃい、谷ノ国の子。名前はハツメ、だったかしら」
背後から響いた凪いだ声にハツメが振り向く。
視界に入ったのは、彼女から数歩の距離のところに佇む、純白の衣に身を包んだ女性だった。
身長が高く、波打つ髪が足元まで伸びている。頭には衣と同じ白い布を巻いていて、長髪の先まで垂れたそれは髪と一緒にゆらゆらと揺れている。
人間でいえば歳は二十代後半。穏やな印象を受ける、美しい女性だった。
「お初にお目にかかります、海ノ神様」
ハツメは女性に向かい深々とお辞儀をする。自然と彼女が海ノ神なのだと分かった。人間らしい外見ではあるが、纏う雰囲気はどこか浮世離れしていた。
「初めてじゃないわ。毎年谷ノ国で見ていたもの。貴女だけじゃなくて、谷ノ民のことは皆そう。今年は呼ばれなかったみたいだけど……何かあったのかしらね?」
軽く頬笑みハツメを見やる海ノ神。ハツメはその言葉で初めて、四神が人間たちの間であったことを全て把握しているわけではないのだと知った。
「今年……お呼びできず申し訳ありません、海ノ神様。これまでのこと、全てお話させて頂いてもよろしいでしょうか」
「ええ、聞かせて欲しいわ。山ノ神と花ノ神のことも含めて」
そう言って海ノ神はハツメに歩み寄る。あまりに近い距離にハツメが身体を強張らせると、海ノ神は少し身を屈め、彼女と同じ目線になる。
「始めて?」
至近距離で囁く海ノ神に戸惑いつつも、ハツメは前年の四神祭であったこと――谷ノ国が滅んだときのことから語り出した。
途中山ノ国の本殿でのことを話せば、海ノ神はハツメの腰に差した天剣を細い指で撫でた。花ノ国の儀式について話したときはハツメの懐に手を当てて、衣越しに天比礼を感じているようだった。
全て話し終えると、海ノ神はハツメの身体から手を離し優しく目を細めた。
「それで貴女は、天宝珠も欲しているのね。何のために?」
どくり、とハツメの心臓が跳ねた。
「……神宝が奪われるのを阻止して、戦を終わらせるため……いえ」
本当は、もっと根本的なところにある。山ノ国で国主のチガヤに頼まれたときに感じた最初の想い。
「大切な人を守るために。そのためなら、私はこの身に余るだろう神宝の力も振るえます」
ハツメが清らかな声で真っ直ぐ海ノ神に伝えると、女性は「そう」とだけ言って頷いた。
「正解はないから何も言えないけれど、間違ってはいないと思うわ。貴女のその顔。たくさん悩んできたのね」
海ノ神が少し困ったように笑う。
「山ノ神も花ノ神も身勝手なところがありますもの。半ば押し付けられたように手に入れて、さぞかし怖かったことでしょう。その感じだと、二柱と言葉を交わしていないのよね?」
「私、お会いすらしたようには……」
「あら、会っているわよ。山ノ神は貴女の話にあった漆黒の大鷲だし、花ノ神は青狼蘭にその身を少し分けているわ。先程の白蛇も私だし、四神は自在に姿を変えられるのよ」
あと、自分たちの世界をつくることもできるわね、ここみたいに。そう言って女性の目はちらりと純白の周囲を見た。
「私たちは神宝が生まれたとき、谷ノ民にその力を扱えるようにしたの。でも、谷ノ地を出るときには神宝も一緒に持ってきたし、散った先の自分たちの国の民にはそれらを扱う資格を持たせなかったわ。ときに残酷なその力は、貴女の言う通り人の身には余るから」
海ノ神はハツメを見つめ穏やかに話す。川のせせらぎのようにハツメに流れてくるその声は、ハツメの胸に満ち、次第に海となっていく。
「既に生まれてしまった神宝を必要と思うのも不必要と思うのも人間の自由だわ。でも、禍……邪と見なすものを終わらせる力はあります。戦で善悪を決めることは難しいけれど、貴女は最初に思ったとおり、大事な人を守ることを考えて使えばいいのではないかしら」
胸に押し寄せる温かい海波。これが海ノ神の慈愛なのだとハツメが柔らかく目を細めると、そこまで話した海ノ神はくすりと笑った。
「貴女が神宝を怖れてくれる良い子だから教えてあげるけれど、貴女の大事な人は戦の世を終わらせる人よ」
「それはどういう……」
小さく開いたハツメの唇を、海ノ神は人差し指で優しく押す。ハツメが紡ぎ出そうとした言葉を押し留めると、海ノ神は微笑んだまま申し訳なさそうに眉を下げた。
「駄目よ。私たち、生きている人間にはあまり干渉したくないの。だから今も海ノ国の様子は見ているだけ。……そろそろ戻った方が良いのではないかしら」
そう言って海ノ神は流れるようにハツメの背後に回った。
「谷ノ国の子」
海ノ神がハツメの首根に両手を回し指先でするりと撫でると、一瞬遅れてうなじに小さな重みを感じた。ハツメが少し俯くようにして身体を確認すると、両胸の間に首飾りが掛けられていた。白い玉に細い穴を開け紐を通しただけという、至って簡素なもの。だがその玉はどこまでも白く、汚れることはない。
「天宝珠よ。持って行きなさい。……それと、この後は火ノ神の国に行くのよね? だとすれば、一つお伝えしたいことがあるのだけど」
ハツメの両肩に手をのせ身を屈めた海ノ神は、ハツメの耳元で小さく囁いた。
「――分かりました」
「勝手な神様ばかりでごめんなさいね。またどこかで。谷ノ国の子」
海ノ神は手のひらでハツメの両目を覆う。真っ白だった視界が曖昧な黒になる。
「ありがとうございます、海ノ神様」
ハツメがそう言えば、すうっと意識が薄れていく。彼女が海ノ神にそのまま身を預ければ、心も身体も温度のない海に溶け込んでいった。
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