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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第三章 海ノ国編
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第百八話 脱出 二

 戦場を抜けたアサヒたちは都の裏道に詳しいルリのお陰もあり、付いてきた少数の追っ手をまくことができた。


 しばらく走れば、都の外に繋がる小道に着いた。

 椿が植えられたその一本道を、季節に似合わぬ太陽がぎらりと照らす。


 ミヅハはそこで立ち止まると、持ってきていた外套の一枚をルリに羽織らせる。遠目でハクジの民だと分かるよりはまだましだと少年は言った。彼自身も残りの一枚を羽織ると、地面の乾いた白砂利を見つめたままアサヒに声を掛ける。


「お前は当然都に戻るんだよね。……ハツメには天宝珠(あまのほうじゅ)は海にあるだろうとは伝えてあるから。どこにいるかは知らないけど」


「ありがとう。念のためキキョウの研究室に寄ってから海へ向かう」


 自分と目を合わせようとしないミヅハにアサヒが礼を言うと、俯きがちの彼は小さい声で呟いた。


「イチルが都の中にいるはずだよ」


「ああ。第一王子はハクジの砦にいる。大通りから向かっていたからな」


「……随分とはっきり言うんだね。まるで実際に『視た』みたいな」


 アサヒはその問いに答えない。それでも彼の無言はミヅハにとっての肯定を示していた。


「やっぱりそうかよ」


 小さく、吐き捨てるように少年は言う。


「何かあるのか」


「別に。お前に言うことはないね」


 早く行こう、とルリの手を引きながらミヅハは進み出す。

 アサヒに背を向け数歩足を動かした彼だが、何かに思い至ったように立ち止まる。少年が振り向きアサヒに向けたのは顰め面。哀しみか、怒りか。あるいは二つが一緒になったようなやるせない顔だった。


「お前がこれからどうするかは勝手だけど。もし反乱軍と組んで、万が一でも父やイチルを倒したら。……今度は僕がお前を潰すよ」


 ――お前が錫ノ国の上に立つのは許さない。


 アサヒを見据えた少年ははっきりとそう言って、都の外へ繋がる道を歩いて行った。

 ルリはアサヒに一度頭を下げると、ミヅハに手を引かれたまま付いていく。


 二人分の濃赤の外套が小さくなる。二人が通った道には彼らの足跡とでもいうかのように、赤い椿の花がぽつぽつと地面に落ちていた。






 ミヅハやルリと別れた後、アサヒは学術院の裏手の胡桃の木から敷地内に忍び込んだ。中心部から離れた北側の隅の方だからか、ひと気はない。それでも気配を殺しながら進み、彼はキキョウの研究室に到着した。


 音を立てないよう研究室に入ると、室内の物が散乱していた。以前のような書物が積み上がった、片付けのされていない状態とはまた違う。研究室内の物品を全て引っ掻き回したのだろう。接収の手はここまで伸びたのかと、目の前の惨状にアサヒは顔をしかめた。


 剣を抜き、静寂な廊下を慎重に進む。このような様子ではハツメたちはいないだろうが、念のため確認はしなければならない。


 研究室内の部屋をざっと見て、戦闘の跡が残っていないことに一度息を吐く。ハツメとトウヤの荷物も消えている。ここからは逃げ出せたのか。


 ミヅハがハツメに天宝珠(あまのほうじゅ)の在処は海だと伝えたならば、今頃は海辺だろうか。戦に巻き込まれていなければいいと願う。


 アサヒは書物や日用品が床にひっくり返された一番大きい部屋を最後にもう一度覗いてみた。まさか隠れていることはあるまいな。その可能性が頭によぎった彼は、思い切って呼んでみることにした。


「ハツメー!」


 かたり、と部屋のどこかから音がした。

 アサヒは瞬時に身構える。


「……アサヒくん?」


 意識しなければ聞き逃してしまいそうな、そっと囁くような男性の声。


「キキョウか」


 姿の見えない相手にアサヒが声を掛ければ、部屋の木床の一枚がゆっくりと浮く。床下から覚えのある白髪頭が見えると、アサヒも彼に歩み寄り一緒に木床を持ち上げた。


 はぁ、と息を吐きながら這い出てきたのはやはりキキョウだった。緊急時に備えての床下なのかは分からないが、普段は開けないのだろう。彼の後頭部や背中には塵やら古いクモの巣の破片がくっ付いている。


「ああ良かった。お互い気付かなかったら、というか君がここに来なかったらどうしようかと」


 そう言いながらキキョウは身体を起こし、アサヒの方を振り返る。べっとりと返り血を浴びたアサヒの姿を見て顔を引きつらせる辺りはやはり元文官だ。彼は小さく顔を左右に振ると、元の表情で口を開く。


「ハツメくんたちは天宝珠(あまのほうじゅ)を取りに行ったよ」


「海か」


「うん。よく知ってるね」


「ミヅハから聞いた」


 不思議そうに首をかしげるキキョウにアサヒが答えると、彼は意外そうに目を見開いた。


「へえ。そりゃあすごい……じゃなくて、そのことについてトウヤくんからの伝言があってね。人目を避けていつもの浜辺に行くって」


 いつもの浜辺といえば、普段訓練に使っていたあの場所か。確かに舟屋群を抜けた先の岩場の下なら、人目に付かないだろう。


 心得たようなアサヒの顔を見て、キキョウは肩の荷が下りたように表情を緩めた。


「じゃあ、これで小生は退散しようかな」


 その言葉でアサヒがはたと気付く。


「俺を待っててくれたのか」


「だって合流できなかったら困るでしょう」


 キキョウはいつもの様子で苦笑する。


「小生はここまでしか出来ないけどね。花ノ国ではのんびりできるかなぁ。……レイランくんがいるから無理かな」


 そう言って白髪頭をがしがしとかきながら彼は用意していた手荷物を床下から手繰り寄せる。

 アサヒも礼を言いながら一緒に引っ張り出すと、ほんの少し眉を寄せた。


 逃げるにしてはこの荷物、やたらと重い。布越しに感じた角ばった硬い塊にもしやと思いキキョウを見ると、「気付いた?」と彼は苦々しく笑う。


「小生だけじゃないよ。実は開戦の前の晩に書庫に行ったらミヅハくんと鉢合わせてね。四神信仰の書物、大事なのだけ預かってきちゃった」


 接収なんて堪らないよね、と書物の詰まった重い荷を背負い、歩き出したキキョウ。

 アサヒは研究室を出るまでその背中に付いていきながら、戦乱における知識人の意地というものを垣間見た気がした。

お読み頂きありがとうございます。

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