第百七話 脱出 一
セイから逃げ出したアサヒは砦の端を目指していた。
砦の内部を知らない彼だったが、ハツメのことを考えると元来た裏口を抜ける時間はなかった。
そうすると表から直接都に出る選択肢しかないわけだが、大通りにはイチルがいる。端から上手く抜け出せないものかと、砦内の回廊を駆けながらアサヒは思案していた。
回廊の窓や矢狭間には反乱軍やハクジの民が弓をつがえ、梯子をかけ侵入を試みる錫ノ国の兵に応戦している。
ハクジの民側に援軍が望めず、和解というものが存在しない今。
この籠城戦の結末は見えてきていた。
嫌な想像を頭の隅に浮かべながらアサヒは人々の合間を縫って移動する。どのくらい進んだだろうか。他の通路との合流点で、彼は戦場に浮く奇妙な取り合わせを見た。
一人はハクジの民族衣装を纏った娘。
もう一人はハクジの民でも反乱軍でもなさそうな、そもそも戦士ではないだろう、華奢な少年。
顔見知り以上の二人にアサヒは声を掛ける。
「ミヅハ! ルリ!」
アサヒの発声と同時に向こうも彼に気付いたようだ。
「お前……! なんでここにいるんだよ!」
アサヒを見るなりミヅハの顔が険しくなる。
少年は普段の彼では考えられないほど声を張り上げると、ルリの手ははしと握ったまま、アサヒに詰め寄る。
「ハツメはどうしたのさ!」
「俺だけ都を離れていて、今朝ここに着いた」
ミヅハに責められずとも分かっている。そんな顔で話すアサヒの全身をミヅハはじろりと見る。アサヒの衣には敵兵の返り血が飛び散っていて、乾燥でかさついた赤い染みは黒に変色を始めている。右手に携えた剣にも同様に、振り落とせなかった血がこびりついていた。
彼は再びアサヒの目を見据えると、声を落とす。
「反乱軍と一緒にいてどういうつもりだよ。……ヒダカ」
少年の声は静かだったが、震えていた。必死で感情を押し殺しているのがアサヒにも分かった。誰かに聞いたのだな、とアサヒが気まずそうに視線を逸らす。彼も胸が痛まないほど、ミヅハに対して薄情ではなかった。
黙り込むアサヒの様子から、ミヅハはやはりか、と彼を睨みつける。
「隠してたことには何も言わないよ。僕がお前でも隠すからね。……でも」
嫌悪の色がミヅハの目に宿る。それは軽蔑とも取れる、ひどく冷たい目。
「ここにいるのは有り得ない。まさか、反乱軍の将に担ぎ上げられたりなんかしてないだろうね。万が一そうなって、反乱が成功なんてしたらお前が次代の国王だって、分かってる? ……お前には、錫ノ国を継ぐ器も覚悟もないだろ!」
自分を見上げ刺々しくなじるミヅハにアサヒはすぐに言い返せなかった。将になる気などない。次代の国王になる気もない。だが自分とは違い生粋の王族である彼の言葉は、アサヒの心に刺さるものがあった。
「反乱軍に加担などしない。ここからは抜け出すところだった。……ハツメのところに行かないと」
一呼吸置いてのアサヒの言葉。ハツメより優先するものはないと言う彼に、ミヅハもこれ以上追求はしなかった。したくても、今はお互いに命が懸かっている状況だ。
「砦を出るの?」
「ああ。……二人も来るか?」
「……そうだね。今だけは信用してやるよ。ハツメに免じて」
そう言ってミヅハはルリの手を強く握り直した。
意を決した少年の顔にアサヒもまた強く頷くと、再び砦の回廊を走り出す。
「どこから出るのさ!」
「一番端から飛び降りる」
「はぁ!? 出来るのそんなこと!」
「やるしかない」
そんなやり取りをしながら、三人は全力で疾走を始めた。
ハクジの砦の内部は外から見たよりも広く、長かった。
混乱の中、長い距離を駆けていく。剥き出しの岩肌が草鞋を履いた足の裏を刺激する。
ここは崖の中を掘って造られた砦だ。
流れていく風景に、アサヒの本心は泣きたくなっていた。
彼は、あの日の谷ノ国を思い出していた。
切っ掛けは、二人の様子を見ようとアサヒがふいに振り返った時。
ルリが顔を歪ませ泣いていた。
涙で濡れる彼女の顔が、谷ノ国が滅んだ日のハツメの顔と重なったのだ。
あの日。自分たち二人を連れて谷ノ国から逃がしてくれたシンは、何を思っていたのだろうか。あの時のシンのように、今度は自分が二人を逃がそうとしている。
必ず逃がさなければ。
自分はシンにはまだ及ばない。それでも、今二人をここから救えなければ、自分を許せなくなる。
谷ノ国のこと、ハツメのこと、シンのことが頭に重なって、アサヒは数回瞬きをした。
感傷に浸っている場合ではない。目を霞ませていいのは今ではない。
砦の端の近くに三人が着くと、ここでも錫ノ国の兵によって梯子が掛けられ、一進一退の攻防が続いていた。
「どいてくれ!」
アサヒは窓際で応戦していたハクジの民を無理やり退かすと、侵入しようと窓に腕を伸ばしていた敵兵に剣を突き、真下に落とす。
落ちた兵に巻き込まれたのが二人。梯子に誰もいないのを確認しアサヒは振り返る。
「ミヅハ、ルリ。梯子を少し降りたらしっかり掴まっててくれ」
「おい。まさか……」
「嫌なら置いていく」
お前ならできるだろう、と根拠もなく言い放つアサヒにミヅハはきゅっと口を結ぶ。ここは建物の三階分の高さにあたる場所。少年はやってやろうじゃないかと目を尖らせると、
「後で絶対文句言ってやるからな!」
そう言って窓から身を乗り出した。身軽な動きで梯子に掴まると、片手をルリに伸ばす。
ルリもまたミヅハに手を伸ばし、彼の手をしっかりと握る。そのままミヅハに引かれるように窓を出た。
お互いに支え合いながら二人は梯子にしがみ付く。
「振り落とされるなよ」
二人の体勢が安定したのを確認して、アサヒは勢い良く窓から飛び出した。
左腕でしっかりと梯子に絡み付き、左足を掛ける。浮いた右脚で砦の外壁を蹴れば、梯子は勢いを増して倒れていく。
砦の下にいる錫ノ国の兵たちがどよめく。
アサヒは右手に携えた剣を振って牽制をしながら地上に降り立った。着地による足の痛みによろけそうになるのを堪え、全身に力を入れる。剣は離さないように右腕、肩も使って梯子を支えると、一瞬遅れて重い衝撃が腕から全身に走った。完全に勢いを殺すのは難しかったが、ミヅハやルリも上手く着地してくれたようだ。ふっと身体が解放される。
息を吐く暇はない。錫ノ国の兵が戸惑っているうちにアサヒは剣を振りかざし、屠る。
ミヅハも護身用の短剣を抜いたが、その出番はなかった。
瞬く間に周囲の兵を薙ぎ倒していくアサヒの先導で、ミヅハとルリも砦から離れていく。
日の光が灰色の路面を反射し、ミヅハの目に刺さる。眩むような日射だが、それは周りも同じだろう。
アサヒの迅速な立ち回りに加え、強い日の光が三人の顔を曖昧にする。
周囲に正体を気付かれることなく、二人の王子と一人のハクジの娘は戦場を抜けた。
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