第百五話 少年は日の下へ
翌朝、ハクジの砦への侵攻が再開されてから数刻後。
人目を盗んで少年は議事堂の一室を抜け出した。
出陣のため建物内の兵の数は少なくなっている。行くなら今だと、ミヅハは機を見定めた。
ハツメにはできるだけのことはした。
書庫の四神に関する書物についても対策済みだ。
今、彼の心を占める存在はただ一つ。ハクジの砦にいるであろう、ルリのことだった。
錫ノ国が宣戦布告した前の晩、迎えをまいてハツメの元を訪れたミヅハはその後ルリに会いに行った。
海ノ国の敗戦を確信していた彼は、戦を前に動揺する彼女に望んだ。
共に来てくれないかと。
縋るようなミヅハの思いは彼女に伝わっただろう。だが彼女は、それを断った。
ミヅハは錫ノ国の人間だが、自分は海ノ国の人間だと。ハクジの民としての生を選ぶと。
ルリの心の全てが分かるわけではない。だがそれらは嘘ではないとミヅハは感じた。彼女は自分に嘘はつかないから。
だから一度は諦めたつもりだった。諦めて、ヒダカへの執着に狂う兄を見て、それで良かったのだと思った。自分もルリに執着してしまうくらいなら、これで良いのだと自分を納得させた……つもりだった。
だが無理だ。今もこうしてルリのことが頭から離れない。無事であっと欲しいと願う。
これは執着ではない。自分は父親や兄とは違うのだ――
ミヅハは自らにそう言い聞かせて廊下を走る。手には二枚の外套。濃赤の厚布を太腿で蹴れば、それらはばさりと大きく揺れた。
磨かれた石床に敷かれた赤い絨毯のお陰で、足音はそれほど立たない。息が切れるほどの広さでもないため、あっという間に議事堂の裏口が見えてきた。
冬を終わらせようとする強い日差しが天井の明り取りから差し込んでいる。白の建材が日光を反射し眩しいほどに。
あともう少しで、外に抜けられる。
そうミヅハの心に淡い期待が宿ったとき、横からの気配に全身の肌が粟立った。相手の放つ圧に怯み、思わず壁に背中を這わせる。
身長差のある相手は、ミヅハの右上、頭よりも高い位置の白い壁に、とん、と優しい動作で左手をついた。
ミヅハは視線を濃赤の外套から上へと移す。
金色の髪がはらりと、ミヅハの眼前で流れた。
穏やかに微笑みながらこちらを見下ろす兄に、ミヅハはぎり、と歯を噛んだ。
「イチル……!」
「母様に連れて帰れと言われてる」
笑顔を崩さないまま。その言葉は起伏のない声で淡々と紡がれた。
作り物を相手にしているようで、ミヅハは堪らず声を張り上げる。
「まだあの女の言いなりなの!? お前がその気になればあの女だって父だって……!」
「ミヅハこそ。また母様から逃げるの? ここに来たときみたいに」
イチルの目がほんの少し細まった。ミヅハの心を見透かすような、怜悧な目。
少年は気圧されぬよう、負けじと吼える。
「今度は! 今度は逃げじゃない! イチルがイチルの欲しいものを望むように、僕にも守りたいものがあるんだ!」
頼むよイチル、とミヅハは呟いた。声が震えているのが自分でも分かった。こうして頼みでもしなければ自分では兄に敵わないと、彼はよく理解していた。
長い呼吸を三回。
少年が長いと感じるだけの間が空いた。
目を細めたまま読めない表情のイチルが、ゆっくりと唇を開く。
「ミヅハのその守りたいものの中には錫ノ国がある?」
「あるよ。信仰を忘れた国でも、僕の母国だ。親は別としても、あの国の王族に生まれたことを僕は誇りに思ってる」
それはミヅハの本心である故の即答だった。
「……そう」
それだけ言うとイチルは左手を壁から放し、ミヅハに振り下ろす。思わずミヅハはぎゅっと目を瞑り、衝撃に備えた。
だが、くるはずの痛みはこなかった。
代わりに感じたのは、頭の上のかすかな重み。手の平の感触だった。
「昨日も言ったけれど、私の右手は何にも触れない。左手は……何でかな。ミヅハの頭から動かないみたい」
その声にミヅハが目を開けて見上げると、イチルがじっと彼を眺めていた。
数秒、二人は見つめ合った。
ミヅハが一歩横に踏み出せば、彼の艶のある黒髪がするりと兄の手の平を抜けた。そのまま会話をすることなく。ミヅハは走り出す。少年は裏口から、光射す外界へと出て行った。
強い日差しの下、小さく白んでいく弟の背中を見てイチルは一人呟く。
「日傘も差さないで行っちゃって。後で倒れても知らないよ」
そう言うとすぐに踵を返し、廊下を歩いていく。イチルが向かうのは逆方向の正面玄関だ。
「よろしかったのですか、イチル様」
玄関口で控えていたエンジュが主に軍帽を渡しながら、控え目な態度で口を開く。死角ではあったが、何があったか察したようだ。
「うん。兄らしく弟の我儘を聞いてやろうと思ってね。……なんて、こっちの方が面白くなりそうだからなんだけど」
イチルは甘く笑いながら受け取った軍帽を被る。
時々見せるその綺麗すぎる笑顔は、エンジュにも考えが読み取れない顔だった。
ただ、主が御母上の命令に背くのは初めてではないかと、彼は一人、決して口には出せぬ不安を抱いた。
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