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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第三章 海ノ国編
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第百話 宣戦

 雨で柔らかくなった地面を蹴りながらミヅハは走る。


 ハツメに言い残すことはなくなった。


 天鏡(あまのかがみ)について触れなかったのはわざとだ。彼は四神信仰を守りたいとは思っているが、錫ノ国の未来に深く関わりそうなことは話すつもりはなかった。ただ以前研究室で話したように、天鏡(あまのかがみ)が錫ノ国ではどうなっているか、それだけ伝えておけばミヅハの中では十分だ。

 それに、仮にハツメが天鏡(あまのかがみ)に辿りつけなくても。それで彼女の命が助かるならば良いのではないかとも思っていた。


 ハツメの方が大丈夫とすれば、残るはルリだ。

 戦を目前にして、ハクジの民である彼女はどうしているだろうか。自分の望みを受け入れてくれるだろうか。


 そんなことを考えながらミヅハが息を切らしていると、学術院の中央に来たところで視界の先に小さな影が映った。

 ミヅハよりもさらに背丈が小さいその人物は、彼が近付くと口を開く。


「王子自らが足を動かして、どうなされました?」


 見たことはないはずだが、自分の素性を知る人物か。ミヅハは思わず立ち止まった。


「大将のアザミです。どうかお見知りおきを。ミヅハ王子」


 そう言って傘を差したまま丁寧に腰を折ったのは、三剣将のアザミ。彼は顔を上げると、人懐っこい笑顔で口を開いた。


「しかし、陛下に似てらっしゃいますね」


「……お前はどっちに付いてるんだよ」


「さあ。どちらでしょう」


 自分の発言は無視して遠慮なく睨むミヅハに、アザミは変わらずにこりと微笑む。


「何の用? 迎えはお前じゃないはずなんだけど」


「いえ、子供同士のよしみでお話したいなと思いまして。あの研究室に通われてたんですよね」


 話し相手の意図が分からずミヅハは身構える。自分とハツメの繋がりを知っているのか。そう考えるミヅハをよそに、アザミは楽し気に一歩足を伸ばす。ぱしゃり、と水溜りに足を踏み入れれば、そこから波紋が広がった。


「初めて会うお兄さんはどうでした?」


「……は?」


 雨音に混じって突然降りかかったアザミの言葉。予想もしなかった話に困惑した表情を見せたミヅハを見て、アザミはますます可笑し気に笑う。


「ああ、ご存じありませんでしたか。第二王子のこと」


 教えて差し上げましょうか、アサヒさんについて。


 アザミの声は夜に妖しく溶けていった。

 ミヅハの心に彼の言葉が絡みつき、身体が重くなっていくのを感じた。




 アザミの話を聞きながら、ミヅハは雨粒で揺らぐ地面をぼんやりと見つめていた。

 気が急いていたはずの彼の意識はアザミの話だけに向いていて、今考えることはそれだけだった。


「大丈夫ですか? ミヅハ王子」


「大丈夫なわけないだろ! 本当になんなの……どいつもこいつも」


 ミヅハは忌々しそうに目を瞑る。数瞬思考を巡らせた後、一度眉間に力を入れてまた目を開けた。

 今度はしっかりと地面を見据えてから。顔を上げ、アザミを向く。


「ちょっと聞きたいんだけど。ヒダカには母親同様、異能の力が備わってるわけ?」


「どうしてそんなこと聞くんですか?」


「立場をわきまえろよ。僕がお前の質問に答えるのは自由だけど、お前には質問に質問で返す選択肢も、答えない選択肢もないよ」


 刺々しく自分を睨んでそう言い切るミヅハに、アザミは少し目を見張る。口調に違いはあれど、こういうところは陛下や第一王子に似ていると彼は少し驚いていた。


「失礼しました。……正直なところ分かりません。仮にあったとしても、第二夫人ほどではないかと思われます。全然兆候が見えないので」


「そう」


 それだけ聞くとミヅハはアザミから視線を外す。これ以上聞く話もない。

 むしろこれ以上のことがあって堪るかとミヅハは苛立たし気に数歩踏み出すと、再び限りある夜に駆け出した。

 まだ日は遠いとはいえ、確実に朝が迫っていた。






 幾人が雨に身体を濡らした夜が終わり、朝が訪れた。

 雨雲は通り過ぎ、昇った日は隠れることなくその光を海ノ都に注ぐ。


 日が昇りきったと同時に、錫ノ国は海ノ国に宣戦布告をした。


 布告とはいっても形ばかりのもの。その頃までには殆どの国民が、戦は確実に起こることだと気付いていた。

 それも当然のことで、錫ノ国が布告を出した時点で既に彼らの軍用船は都周囲の港に入港を終え、陸路をきた軍隊も都を目前に野営していた。


 海ノ国の軍隊も動いていなかったわけではない。話では宣戦布告の前にどこかで戦闘があったともいう。しかしそんな抵抗をものともせず、あっという間に錫ノ国は都周辺を固めた。


 完璧なほどに鮮やかな包囲だった。




「これは革新派が手引きしたねぇ」


 貴重品を集めながらキキョウが言う。いつもと同じゆっくりした口調だが、口元に笑みはなかった。


「宣戦布告か。山ノ国にはそんなものなかったぞ」


「今回だって今更だけど、戦後の国民感情のためだね。錫ノ国は海ノ国の統治には乗り気だし、海ノ国の国民を扱いやすいと思ってるから。山ノ国の国民はどうやったって言うこと聞かないでしょ。あ、褒めてるんだよ」


 山ノ国の国民は舐められてないってこと。とキキョウがトウヤに説く。


「錫ノ国がここを支配したら、ハクジの民以外は簡単に(なび)くんじゃないかな。その為に彼らはずっと外交で下準備してきたんだと思うけど。ああ怖い」


「錫ノ国は海ノ国に圧力を掛けていると、ミヅハが言っていたな」


 トウヤの言葉にキキョウはそれそれ、と指をさす。


「裏では保守派、つまりハクジの民に圧力を掛けておいて、表では交易を中心に甘やかしてたんだよね。今だって錫ノ国に対しての国民感情は悪くないと思うよ。後はハクジの民をどうするかだけど……考えたくないなぁ」


 キキョウは苦々しげにそう言うと、まとめ終えた荷物を机の上に寄せた。

 その横には他にも小さな荷がいくつか。

 彼だけではなく、ハツメやトウヤも夜中のうちから荷物をまとめ始めていた。


 アサヒの帰りを待つ間に天宝珠(あまのほうじゅ)を手に入れる。

 戦にできるだけ巻き込まれないようこちらの目的を果たし、アサヒと合流する。


 その思いを胸に、ハツメは立ち上がる。

 こちらを見て微笑むキキョウに、ハツメは別れの挨拶をと、口を開いた。

お読み頂きありがとうございます。

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