第九十八話 真夜中の訪問者
学術院を出てからしばらく経つと、気持ちは少し落ち着いた。
夜の雨はまだ降り続いている。
濡れたからといってすぐ戻る気にもなれずトウヤが通りを歩いていると、学術院から少々坂を下りた先にある議事堂が目に入った。
真夜中にもかかわらず室内の明かりが漏れている。どうやら部屋に備え付けのランプではなく、携帯用の小さなものを使っているらしい。光の量はごくわずか。
書庫と同じ光沢のある白い石材で建てられたそこでは海ノ国の議会が日常的に行われているが、夜に開いていることなど普通はあり得ない。明かりが堂々とではなく密やかに付けられているところもかえって怪しい。
やはり不穏だな、とトウヤは思う。
ここ数日のシラズメの空気は戦の前のそれと似ている。ただ山ノ国の場合と違うのは、互いの出方を窺うような、訝しむ視線を海ノ国の国民同士で送り合っているということだ。
ハクジの民が中心の保守派と、錫ノ国寄りの革新派。
海ノ国の軍の中では保守派が強いというが、それでも此度の戦では二つに分かれるのではないだろうか。
同じ国とはいえ、民族間の垣根を取り払うのは難しいものだ。それは対立の歴史があるなら尚更のこと。
対立の歴史といえば、山ノ国と錫ノ国もそうだ。花ノ国のように錫ノ国と上手く付き合ってこなかった山ノ国は国民感情として錫ノ国を嫌っている、というよりは好きになる要素がない。冬明けに戦があったため今はどうしようもないが、この犬猿の仲をいずれ何とかしたいとトウヤは思っていた。
交易というものは良いものだ。物品だけでなく知識、技術の流入によって国は豊かになる。
今の情勢を考えると二国間の対立関係の解消など到底不可能なことではあるが、遠い未来、友好とまではいかなくとも交易くらいは結べないものか。
それはトウヤ自身の私情は抜きにして、花ノ国と海ノ国を回り感じたことだった。
「まずは目前の戦を何とかせねばな」
議事堂の中で何をしているのか。窓越しに明かりがちらちらと揺らぐのを見やりながら、トウヤは白い建物の前を通り過ぎた。
「あれ、トウヤさん?」
暗闇に似合わない可愛らしい声にトウヤが振り向くと、ケイが立っていた。
菜の花色の着物に黒の羽織を合わせたケイは赤い傘を差していた。
こんな夜更けにこんばんは、と微笑む四歳年下の芸者を見て、トウヤは少し驚きながらも言葉を返す。
「ケイではないか。こんな夜中に女子が一人歩きするものではないぞ」
「あは、こんな子どもでも女子として見て頂いてありがとうございます」
でもこんな仕事だとしょうがないんですよ、とケイは彼の心配を気にかけず笑った。
「それよりトウヤさん。傘も差さないで大丈夫ですか? 何かありました? ハツメお姉ちゃんと」
「……鋭いな」
「人の心の機微には聡いんです」
傘をくるりと回しながら、ケイはトウヤに歩み寄る。
「落ち込んでいるならこのまま花街に行くのはどうでしょう。着替えも準備しますし、ご案内しますよ」
トウヤを見上げたケイが、丸い目をぱちりと開けて微笑んだ。傘の色と同じ唇の紅が小さく弧を描く。
「……いや、申し出はありがたいが。そういう気分ではない」
別に花街に対してどう思っているわけではないのだが、とトウヤは付け加える。
申し訳なさそうだが折れそうもない彼の言葉にケイは眉を下げると、
「そうですか。それは残念です。……まぁ花街にはろくでもない人も来ますし、それが良いのかもしれませんね」
そう言って、こてりと首を傾けた。
その頃ハツメは、海を見ていた。
燦々と降り注ぐ日光を浴びて輝く、濃青の海。細かな飛沫の一粒一粒が煌めく、美しい海。
ふと、呼ばれたような気がした。
一歩踏み出すと、足元は砂浜だったことに気付く。
そのまま歩を進め波打ち際に立つ。白波に足を濡らせば、不思議と冷たくなかった。
また、呼ばれた。
今度は気がするのではない。確かに呼ばれている。
その声はハツメの頭の中で段々と形を伴って。
彼女は目が覚めた。
「ハツメ……ハツメ! おい!」
「ミヅハ……」
「お前馬鹿じゃないの! なんでこんなに呼んでも起きないのさ! 命狙われてるって自覚ある?」
声の主はミヅハだった。彼はハツメの顔を覗きながら怒った様子で言葉を浴びせる。まだ状況が掴めないが、どうやら寝ていたところをミヅハに起こされたらしい。
まさか眠りから覚めないことで十三歳に説教を喰らうとは思っていなかったが、ミヅハの言うことはもっともだ。ハツメはぼんやりした頭で少年にごめんなさい、とだけ言った。
先程になるのだろうか。ハツメはトウヤと話し終えた後、そのまま寝所に戻った。寝床に腰掛け残った甘酒で温まると、その後は穏やかな気分で就寝したはずだ。
薄暗い中、ハツメはむくりと身体を起こす。布団にくるまった彼女はやはり寝所で寝ていた。
今ハツメの横には、彼女の眠りの深さを咎めるミヅハの姿。窓をちらりと見ると、まだ真っ暗だ。この真夜中に部屋を抜け出してきたのだろうか、とハツメは彼を見やる。
「本当は廊下から呼んでたんだよ。それなのに全然反応ないし、おかしいと思ってここまで入ってきたんだ。僕を異性の寝所に入らせるとか、本当やめてよね」
頭が覚醒してきたこともあって、いよいよ恥ずかしくなってきたハツメは急いで寝床から降りる。
「ごめんなさい、ミヅハ」
「いいよ別に。それより、大事な話があるんだ。天宝珠のこと、お前には話そうと思って」
僕がいなくなる前に、とミヅハは小さく呟いた。
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