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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第一章 山ノ国編
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第一話 谷ノ国

 朝日と共に目を覚ます。

 冷たい岩肌の壁を一段よじ登り、岩を削った木枠の窓から下を覗くと、そこは峡谷。


 深く深く抉られた谷底に一筋の川が流れている。運が良いと鹿や熊の姿も見える。ここから覗く風景がハツメは好きだった。


「おはよう、ハツメ」


「おはよう、母さん、アサヒ」


 ハツメが隣の部屋に行くと、母が朝ご飯の川魚を焼き、同い年のアサヒが手際良く食器を並べていた。父はすでに出掛けたようで、姿はない。


「起こしてくれて良かったのに」 


「ここ数日四神祭の準備で忙しかったから、ゆっくり寝かせてあげようと思ったのよ。起こしても文句を言う癖に、しょうがない娘ね」


 無駄に早く起きるのも嫌だが、一人だけ遅いのは何だか損した気分になる。そう思い膨れたハツメを見て、母はくすりと笑った。


「ゆっくりできるのは今日までだからな。明日からは四神祭だ」


 木製の食器を並べ終わったアサヒが、嬉しそうにハツメに微笑む。いつもは彼女と同じくらいの時間に起床する彼が今朝だけ早いのは、四神祭が楽しみでそわそわしているからのようだ。



 神々の故郷であるここ谷ノ国は、年に一度、帰郷のために神々が足を運ぶ土地。ここに住む谷ノ民はその際に神々を迎え入れ、お持て成しをする。そうして神々が日頃の憂いを忘れ宴を楽しんだら、またそれぞれの土地へ送り出す。この間の儀式を四神祭といい、国を挙げて祭事だった。



「母さん、今日は何もないようだったら、アサヒと地上へ行きたいわ」


「しっかりお昼ご飯を持っていって、日が傾くまでに帰ってきたらいいわよ」


 母がそう言って柔らかく微笑むと、ハツメは珠のような黒い瞳を輝かせた。


「ありがとう! 行きましょう、アサヒ」


「うん。いってきます」


 川魚を綺麗に骨一つにすると、ハツメは走り出す。

 アサヒもまた朝食を終えると、彼女のなびいた豊かな黒髪を追いかけるように駆け出した。


 父と母、ハツメとアサヒの四人で住んでいる住居の玄関を出てもまだ地下だ。

 居住区はほとんどが剥き出しの岩壁だが、廊下も住居も広さは充分にある。

 外からの明かり取りの他に昼夜問わずランプを灯しているから、地下でも不自由なく明るかった。


 二人は入り組んだ居住区を抜けていく。

 廊下を真っ直ぐ進み、円形の広場を抜け、緩やかな螺旋階段を登りきる。更に廊下を直進し、最後に階段を十二段登ると、やっと地上だ。

 ハツメはいつも地上に出るのが待ち遠しく、最後の十二段をもどかしく感じていた。


 地上への出口を抜けるとすぐに峡谷の景色が広がった。

 大きく弧を描くように続く巨大な峡谷。硬い谷壁が谷底まで垂直に伸びており、谷底を一本の川が走っている。地上には緑が生い茂り、さわさわと木々が揺れる音が心地いい。


 峡谷の谷壁には先程ハツメが覗いていた窓が無数に開いているが、ここまで来ると粒のようで目を凝らさないと分からない。


 それよりも存在感を放つのは無数の吊り橋だ。人がすれ違える幅に掘られた谷壁の穴から大小様々な吊り橋が伸び、峡谷を繋いでいる。大自然の中に文明が息づいた、神秘的な光景だった。


 ハツメが地上へ出るとすぐにアサヒも追い付いてきた。去年はもう少し時間がかかったはずなのだが、今年はほとんど同時。もう二人とも十六歳だ。今まで追い付かれなかったのが不思議なくらいで、来年は越されてしまうのだろう。ハツメも男女の違いは理解しているつもりだったが、時々どうしても寂しくなる。


「足速くなったね」


「いつも先に行ってしまう奴の後を追っているからな」


 越されるのは寂しいが、いつも追いかけてくれるのは嬉しいことだ。

 ふふ、とハツメが笑うとアサヒも優しげに目を細め、笑った。




 アサヒは十年前、ハツメが六歳のときに父が連れてきた捨て子だ。

 初対面の彼は長時間森の中を歩いてきたのか肌や衣類は汚れ、疲れ切った様子だった。だがそれでも隠せない端正な顔立ちと毅然とした態度は印象的で、そのときのことをハツメは今でも覚えている。


 初めは警戒心を隠さないアサヒにハツメも戸惑ったが、しつこく話しかけていたらぽつりぽつりと返事をするようになった。日常生活に最低限必要なやり取りが続いてしばらくすると、二人きりのときに初めて、アサヒは自分のことを話した。


 自分は谷ノ国の人間ではないが、どこから来たのかは分からないこと。

 森で迷い死を覚悟したところを今の父に拾ってもらったこと。

 本当の父親は知らないが、不思議と母親の顔は覚えていること。


 その話をして以来二人はすっかり仲良くなり、兄妹のように過ごした。アサヒは自分のことは詳しくなかったがとても博識で、谷ノ国の誰も知らないであろう、外の世界のことを知っていた。


 実際に見たのではなく本で読んだ知識だと言うけれど、それでも谷ノ国を出たことがなければ本らしい本を読んだこともないハツメには魅力的で、アサヒの話が大好きだった。


 アサヒは二人きりのときだけ外の世界の話をする。だからこうして人通りの少ない地上へ出ては、二人は時間の許す限り話し込んだ。その時間というのはあっという間で、朝日が昇ってから日が暮れるまでということもざらだった。


 谷壁の近く、大きく平らな岩に腰かけた二人はくつろぎながら会話をする。


「アサヒが来てからもう十年経ったのね」


「あっという間に二人とも十六歳だ」


「明日の四神祭で私達は大人の仲間入り。私は女仕事、アサヒは男仕事に出て、毎日を過ごすんだ」


 ハツメは今の生活に不満があるわけではない。だが、アサヒの話を聞いているとどうしても外の世界を覗いてみたくなる。ここでの変わらない毎日も楽しいが、この谷の外には何が広がっているのか、彼女は彼の話でしか知らない。憧れを抱くのも自然だった。


 そんなハツメの様子を見たアサヒが隣で口を開いた。


「俺は周りと同じようにこの国で生きて、自分を拾って育ててくれた父さんや母さん、谷ノ国の人々に恩を返したい」


 前を向いている彼は力強くそう言うと、今度はハツメに視線を移す。


「もちろんハツメにもだよ」


 風に黒髪を揺らしながら、アサヒは穏やかに笑った。


 ハツメもまたアサヒをじっと見返す。

 陶器のような白い肌、吸い込まれるような黒い瞳に長く揃えられた睫毛。涼やかさを感じさせる顔立ちは、谷ノ国では見掛けない容貌だ。

 そんな彼にハツメは小さな唇を開いた。


「ありがとう。それじゃあアサヒは、これからも私に世界の色々なことを教えて。見れなくても、想像だけでも楽しいの」


「じゃあ今日は、四神祭にちなんで世界の祭りの話でもしようか」




 谷ノ国は常に峡谷の間に沿って風が吹いている。狭いところを通るのだから本来は強風のはずなのだが、季節天気問わずここの風は穏やかだ。

 谷ノ国の人はこれを神々の御心によるものとし、ハツメもそう感じていた。


 今日も変わらぬ柔らかな風を受け止めながら、二人は日が暮れるまで話し込んだ。

お読み頂きありがとうございます。

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