後日談・ディディエ編《前編》
リュシアンとアニエスが手に手をとって駆け落ちして、早一週間。元から台本ができていたことだし、予想外に強力な協力者が多数増えたから、混乱は起きていない。彼らに関する話題があちこちから聞こえてくるけれど、私自身は日常を取り戻しつつある。
ただ。当たり前のように共にいたリュシアンが、いないことに慣れることができない。侍従に「今日のリュシアンの予定は」と尋ねたり、「リュシアンの意見を聞こう」と言ってしまったり。
するとみな、何とも言えない表情をするから、やるせない。
「ああ、すまない。なかなか慣れないな」
と繕うが、慣れてしまう前に帰って来てほしいなんて願ってしまったりもする。
もしかすればリュシアンの不在は、アニエスが彼を選んだことよりも私にとって辛いかもしれない。
近頃はもうひとりの親友マルセルも落ち込んでいて、あまり王宮に来ない。
ジョルジェットが他の男に思いを寄せていた、その恋を諦め別の男と結婚をするという状況になってようやく、彼女が自分にとって特別な存在だと気づいたらしいのだが、それはあまりに遅すぎた。
なんとか彼女を引き留めようと、もがけばもがくほど墓穴を掘り、彼女は遠退いてしまったようだ。
イヴェットは
「マルセルは今までジョルジェットに甘えすぎていたツケがきたのよ」
と辛辣だ。
だが本人もそのように思っているようだ。まだ事態の好転に望みをかけて、必死に挽回しようとしているらしい。
だがきっと無理だろう。
ジョルジェットがマルセルを見る顔が以前と違う。私ですら分かるのに、マルセルは分かっていない。
もっともそれが分かる私は、イヴェットが言うには『成長した』のだそうだ。
ついでに成長した私なら、いつか素晴らしい女性と結ばれるから頑張って、と慰められた。
どう頑張ったら素晴らしい女性に巡り逢うのかと尋ねたら、それは運を天に任せるか、自己努力との答えだった。
アニエスとの出会いは運だから、次は努力で勝ち取る番かもしれない。
一体どこにアニエスに匹敵する令嬢がいるのだろう。
「だから! 散歩の護衛をしてほしいと頼んでいるのよ」
回廊を歩いていると、そんな声が聞こえてきた。ベアトリクスだ。
角を曲がるとその先の中庭に出る扉の前に彼女とエルネストがいた。
「申し訳ありませんが私は巡回中ですので」とエルネスト。
「終わったらで構わないわ!」我が儘ベアトリクスは引かない。
「殿下には自国の護衛がついているでしょう。私がしゃしゃり出る訳には参りません」
「彼らは兄さまの護衛と帰りの警備計画で忙しいの!」
エルネストは迷惑しているようだ。彼とは同士のようなものと言えなくもない間柄だ。
「ベアトリクス。うちの近衛を困らせるな。エルネスト、仕事に戻れ」
エルネストは踵を揃えて礼をすると、去って行った。
一方でベアトリクスは、不満大爆発の顔で私を睨んでいる。
「なぜ邪魔をするの!」
「当然だ」
「私はあと三日しかここにいられないのに。意地悪ディディエ。頭でっかち。独りよがり。それから……」
無視して私も去ろうとして、ベアトリクスの目尻に涙が浮かんでいることに気がついた。
驚きが顔に出たのだろう。私の表情にはっとしたベアトリクスは
「覚えてなさいっ」
と負け犬のような台詞を吐いて、スカートを翻して私が来た方向へ去って行った。
……あの我が儘が涙を浮かべるなんて。
さすがに何か悪いことをしたのだろうかと気になった。
◇◇
その日の晩餐前。突然、部屋にバルナバスが訪ねてきた。笑みを浮かべているが、彼の見た目は信用できない。言動は軽いしついでに頭のほうも軽そうに見えるのだが、その実、抜け目がない。
嫌いではないが、腹が読めないので少しばかり苦手だ。
……リュシアンがいたときは、私たちの間に入ってうまく緩衝材になってくれていたのだが、もう彼はいない。
「どうかしたのか、こんなに急に」
笑顔を浮かべて、従兄を迎えいれる。客人は自室かのような態度で長椅子に座り、足を組んだ。
「いや、なに、ね。ベアトリクスに泣きつかれて文句を言いに来たわけだ」と笑みを崩さずバルナバスが言う。「可愛い妹を泣かされて、黙っているわけにはいかないだろう?」
昼間の件だろう。あの涙の原因が分からない以上、泣かせてなどいない、と言いきっていいのかどうか。そんなに庭を歩きたいと願う心理も皆目分からん。
「ベアトリクスは諭したけどね。あの間抜けなお子さまには、女性の気持ちを推し量ることはできないのだよ、と」
「なぜ謗られなければならないのかが分からない」
「まだ分からないのか、童貞め」
「関係ないだろ、それはっ!」
ふたつしか年上でないくせに、やたら女性に詳しいバルナバスは楽しそうにくっくと笑う。
「純粋は可愛いけれど、過ぎれば鼻につくものだ」と、バルナバス。「ベアトリクスは近衛分隊長エルネスト・ティボテに片思い中。果敢に散策に誘っていたところを、野暮で阿保で童貞なお前が邪魔をした。あまりに非道な行いだと思わないか?」
予想外のことに、呆けて瞬く。
「は? あのエルネストにか?」
うなずくバルナバス。
「あの堅物に?」
「鈍感具合はお前といい勝負だな」
「まさか、私のほうが百倍ましだ。というか本当に?」
あの我が儘ベアトリクスが片思いというのは似合わないし、その相手が面白みがまるでないエルネストというのも理解不能だ。
「『自分のほうがマシ』などと言っているから本命に逃げられるのだ」
私の本命の話など、彼には一度もしたことがない。
「何で知っている?」
そう尋ねると従兄はぶっと吹き出した。
「カマをかけただけだ」
カッと頬が熱くなる。まんまと引っ掛かってしまった。
「まあお前にもリュシアンにも良い結果だろうよ。お前はあいつに頼りすぎだったし、あいつはお前を助けすぎだった」
「そんなことは……」
「最も今はそんなことを話しに来たのではない」バルナバスはバサリと会話を切る。「私たちがこの城にいられるのは今日を入れてたったの三日。それしかないのに、ベアトリクスの恋路を邪魔した落とし前をどうつけてくれるのかな」
笑みは浮かんだままだが、逃げは一切許さないという圧を感じる。
「落とし前といっても王女と他国の近衛兵ではどうにもならないだろう?」
「恋の成就など願っていない。好いた相手との思い出が欲しいだけだ。それくらいならお前とて覚えがあるのではないか?」
「……いちいち一言が多い」
「妹を泣かされて腹が立っているからな」
「それは済まなかった。後で彼女にも謝る。ただ、エルネストの意志もあるから、一概に協力するとは約束できない」
あの男もアニエスへの気持ちがきれいさっぱり消えた、という訳ではなさそうだ。私にあれこれ画策されるのは面白くないだろう。
と、何故かバルナバスが笑っている。
「従妹といえども、ろくに会ったこともない女よりも、身内の近衛を優先か。ただの庭の散歩も望めないとは、不憫なベアトリクス」
その言い方にカチンとくる。
「自国の近衛を優先して何がいけない」
「あの男に決まった相手がいるならばともかく、そうではないのだろう?たった十五歳の少女のささやかな願いを叶えてくれる度量はないのか。結婚を迫っているわけではあるまいし」
最後の台詞にドキリとする。
相手の気持ちを推し量らずに結婚を迫ったのは、自分ではないか。何を常識人のふりをしているのだ。
そうなじられた気がしたが、バルナバスはまだ笑みを浮かべている。深い意味などないのかもしれない。
「もういい」と従兄は立ち上がった。「私の不満は伝えた。お前はつまらぬ男だ」
再びむっとしたが、言い返すことはできなかった。
あのベアトリクスが泣くほどの邪魔をしたのは事実だ。
「じゃあな、非モテ王子」
「おい、私はモテるぞ」
「王子だからだろ?」
バルナバスは明らかにバカにした笑みで部屋を出て行った。
『王子だから』。
そのぐらい、分かっている。
しかも肝心の相手には、それさえ通用しなかった。
むなしくなって、おかげでベアトリクスが涙を浮かべた気持ちがほんの少し理解できた気がした。
◇◇
晩餐に現れたベアトリクスは普段通りだった。昼間の件はなかったかのような振る舞いだ。覚えてなさいと言い捨てたのは自分なのに。
王宮の晩餐に出席できるのは成人以上とのルールがある。けれど私は十七になったときにほぼ成人だからと出席が認められた。
基本メンバーは国王夫妻にデュシュネ大公夫妻に私。そこに客が加わる。外国の要人や我が国の貴族といった面々で、今ならばバルナバスとベアトリクスの兄妹だ。
ベアトリクスは十五歳でまだ成人していないけれど、隣国王女への配慮のようだ。
そのことに、なんの疑問を持っていなかった。リュシアンがいなくなるまでは。
リュシアンは成人しても、ここに加わることはなかった。弟妹たちがいるからと誰かが説明をしていた気がするが、はっきりとは覚えていない。
両親との関係があるからだろうと、自己解釈をして済ませていた。
だけど彼がいなくなる直前に私の父や叔父にどんなに軽んじられていたかを知り、ようやくこの晩餐の歪に気がついた。
ここに加わらないことをリュシアンは、気が楽だと言っていたけど、今になって、それは本心でなかったかもしれないと考えるようになった。
バルナバスの言う通り、確かに私はひとの気持ちを推し量ることができていないのかもしれない。
普段通りに見えるベアトリクスだって、内心ではあと二日しかないのにと焦燥して晩餐どころではないのかもしれない。
晩餐のときの彼女は、我が儘を言わない。言うような件がないだけかもしれないが、おとなしく口をつぐんでいるわけでもなく会話に普通に加わっている。
かといって背伸びをして無理をしているのでもない。この時ばかりは王女らしい、と言えなくもない。
私の誕生会で、エスコートをしないと参加しないと駄々をこねた人物と同じ人間とは思えない。
それ以外だって、あそこへ連れていけ、これを取り寄せろだとか散々うるさく言っていたのに。
……そうだ。言って『いた』。過去形だ。いつから彼女は言わなくなったんだ?
もしかしたらその理由がエルネストなのだろうか。
晩餐が終わるとベアトリクスは自室に戻る。そんな彼女を呼び止めた。初めてのことだ。
彼女は険のある目を私に向けたが、サロンに誘うとおとなしくついてきた。もちろんバルナバスも一緒に。
「昼間のことだが」
そう言いかけると彼女の目はますます険しくなった。
「愚鈍な王子様、気分はお変わり? 何か素晴らしい策を授けて下さる話ならば聞きます。言い訳ならばけっこう」
むっとして
「愚鈍とは失礼ではないか」と言い返す。
「あら、自分ひとりの正義でしか物事を見られないのだから、愚鈍でしょう?」
「近衛が他国の我が儘王女に無理難題を突きつけられて困っていれば、助けるのが当然だ」
「我が儘を言って何が悪いの? 自分を抑えこんで我慢をしていても、私の望みが叶うと言うのならば、そうするわ」
その通り、とバルナバスがうなずく。
「我が儘で周囲を困らせるなど、王女のすることではない」
「王女だから我が儘を言うのでしょう」
子供じみた発言に、思わず侮蔑の目を向けた。
「私たちは」とベアトリクスは冷めた目をしている。「国王の子供よ。しかも私なんて女。国と父の都合の良いように動かされる駒でしかない。自由が少しでもある今、自分の気持ちに正直にならなくて、いつなるの?
この先ハゲデブの中年国王に嫁がされるかもしれない。緊張状態にある国に人質として出されるかもしれない。
その前に好きになった人と庭の散歩をしたいと願うことは、悪いこと? おとなしく胸に秘めていたらいいの?」
ベアトリクスの思いもよらぬ話に面食らった。彼女の我が儘は、ただの我が儘。理由などないと思っていた。
「残念ながら、あなたの婚約者になるミッションは失敗したわ」とベアトリクス。
「ミッション?」
聞き返すが彼女は構わず続ける。
「私に残された選択肢は少ないの。最後に夢を見たいと願って努力したって、いいじゃない。あなたは何も知らないくせに、何故邪魔をして、それが当然なんて態度をとれるのかしら。視野が狭いのよ。自分が見たいようにしか、物事を見ることができない」
ふたつも年下の従妹にけちょんけちょんに詰られているのに、反論ができなかった。
「我が儘を言う私が悪いと断罪して終わり。それで近衛を助けた良き王子と自己満足。私の意見を聞こうともしない」
「そのくらいにしてやれ」バルナバスの声が割ってった。「考えの甘いお子様はショックを受けているようだぞ」
ベアトリクスはフンッと鼻を鳴らした。
「自分の欠点を突きつけられたぐらいでショックを受けるなんて、本当に弱い精神ね。それで王子なのかしら? 兄様の爪の垢でももらったら?」
「……ショックなど受けてはいない。考えた上での我が儘だったことに驚いただけだ」
咄嗟に嘘をついて誤魔化す。プライドを守ろうとしてしまった。そこが、器の小ささだ、と自分でも分かる。
「……しかし、何故エルネストなんだ。あいつはあの通り、女性に愛想がある奴ではない」
そう尋ねると、ベアトリクスの顔がみるみる間に赤くなった。目が泳ぎ、口がふにゃふにゃとしている。
「猫を助けていたらしい」とバルナバスがにやりとする。
「っ! 言わないでよっ」ベアトリクスが兄をこぶしでポスンと叩く。
「あの仏頂面で高い所から降りれなくなった子猫に『危ないからこっちにおいで、にゃんこ。俺を信じて』とか言ってたらしい。で、単純なベアトリクスはハートを撃ち抜かれた」
「い、いいでしょう、別に!」
兄妹が楽しそうに言い合っているのを聞きながら、そんな可愛いらしい恋を私は確かに邪魔したのかもしれないと、少しばかり後悔した。
◇◇
それからベアトリクスは、ささやかな願いを叶えることなく自国へと帰って行った。




